21.いざ龍馬のさとへ(高知県財政課長の頃)
昭和56年11月、高知県財政課長として赴任することになりました。発令は11月15日、奇しくも坂本龍馬の誕生日であり、命日という記念すべき日です。このことが、私を龍馬が土佐に呼んでくれたのだ、故に龍馬の申し子として龍馬になりきるのだと思いこんでしまうきっかけにもなりました。その日は南国土佐には珍しく北風が吹き雪の舞う寒い日で、ちんちん電車の通る道路沿いに海援隊の旗がはためいていました。なにか、これまでと全く違う、時も場所も遠い異次元異国へタイムスリップ、空間移動したような風景でした。

高知県への赴任。それは、当時そろそろ空きそうなポストとして想定されていた所でしたが、それまで出張で全国各地を歩きながら、生まれてこのかた一歩も足を踏み入れたことのない未知の県でした。その後高知県に来られる国の役人で、結構私と同じように、最後に訪れる県という人が多いのに驚いたことです。それだけあまり用事がないということかも。どんどん情報発信をし、交流を活発化しなければと、その度に思ったことです。

高知県は、当時の自治省仲間では、「難しい県」という印象でした。何が難しいかは、その時には、しかとはわかりにくかったのですが、要するに、人を選んで派遣しないと失敗するというような意味のように受け止めていました。その意味では、選ばれたことに誇りを持ちつつ、これから何が起こるのか期待と不安に緊張が高まってきました。現にかつて高知で先輩がある事件を起こして、地元でマスコミ、議会、組合などに厳しく指弾されたケースが尾を引いているということでした。

そのことは、辞令をいただきに高知空港に降り立ったとき、空港の周りを囲う金網の塀の外からなにやら「帰れ、帰れ」というシュプレヒコールのような叫び声が聞こえ、赤い旗が林立している異様な光景から、やっと実感として知らされ、どうも私は歓迎されていないなと緊張感を強めました。空港の一室で県職員労働組合の皆さんに「着任前交渉」として、話し合いを求められ、「なぜ高知にきたのか。高知県はあなたは歓迎しない。帰りの切符は用意してある。すぐ帰れ。」という厳しい団交でしたが、「知事から要請されている。帰るわけにはいかない。高知県の発展のために、一生懸命がんばりたい。」という押し問答で終始しました。

あとで聞くと、空港まで押しかけてきたのは組合としても初めてのことだそうで、よっぽど大物とみられていたのかなあと当時をなつかしく思い出します。無事、知事から辞令をいただき、着任後の組合新聞をみると、空港での着任前交渉での私のことを「いかにも高知県を指導しちゃるというような態度だった」と書かれて、いささかショックでした。

着任後は、今度はいよいよ着任交渉ということで、仕事をする上の基本的な考え方や組合に対する姿勢や人となりを把握するための、というより「しつけ交渉」ということばがあるように、組合教育的交渉がなされ、高校の寮時代に新入生に対して上級生がしていたようなあの嫌な雰囲気を再び味あう思いでした。

手荒い歓迎を受けたことで、第一印象は決してよくなかったのですが、いざ住んでみると、これまで赴任した青森県、滋賀県とはまた違った県民性で、一旦中に入るととことん大事にかわいがってくれる人なつっこさ、あけっぴろげな人達が多く、とたんに気に入ってしまいました。
転勤すると子供のことが一番気にかかるものですが、びっくりしたのは、まだ引っ越し荷物をかたづけている赴任間もないとき、小学校1年生の2学期の途中に編入した長女が初めて高知の学校に行った日のことです。とかく転校生はいじめられたり、孤立したりでつらいものですが、なんとその日、下校した子供といっしょにクラスの子10人くらいがどっと押しかけてきて、庭や家の中をわいわいと走り回り始めるではありませんか。いきなり「グとパのそろいぞね、ぞ・お・ね!」と、高知独特のじゃんけんで、鬼ごっこのような遊びが始まり、家中子供の叫び声で大騒ぎになりました。わが子もすっかりうちとけて、早くも土佐弁らしきことばを口走り始めたのには、子供の環境順応性に驚くやら感心するやら。

明るく開放的で、新しいものをどんどん受け入れる、これぞ土佐人気質と感じ、これは家族も含め高知が大好きになりそうだと、新しい土地に慣れる自信ができ、ホッとしたことです。

財政課長という仕事は、県民相手というより、財政運営を通じ、県庁各部局を相手とする内部管理的な分野ですが、議会対応の窓口課として、県議会議員の皆さんとのお付き合いが課長としても大きなウエイトを占めていました。結局財政課長としては、昭和56年11月から、59年3月まで約2年半を務めましたが、県行政全般について勉強するいい機会となりました。
着任早々の予算編成作業は大変でした。なにしろ県政については知識がほとんど白紙状態でしたので、県内市町村の名前から、位置から覚えなくてはなりません。暇をみつけてはマイカーで県内各地を行脚することから始めました。毎日続く担当からの予算査定の聞き取り、議論で、朝の4時まで作業をすることもあり、その間は夕食は自宅ではまず食べることがなく、外に食べに行ったり、弁当屋さんから弁当をとったり、当時ですからたまになじみの小料理屋さんからの差し入れが楽しみであったりという生活でした。

当時は、オイルショックからようやく立ち直り、低成長時代に入ったところで、高度成長時代のよき時代は終わりを遂げ、行政改革、事務事業見直し、財政立て直しのかけ声が高まっているさなかでした。毎年のように、年末になると財源不足で、このままでは赤字になる、予算が組めないという財政当局の悲痛な叫びが各部局に伝えられ、緊張感の中での予算編成作業、かんかんがくがくの議論の末、結局なんとか当初予算としての形を整えるという繰り返し。いろいろと、人知れず、財政のプロを任ずる担当が、知恵を出し苦労しながらやりくりした結果なのですが、そのうち、「財政当局の叫びは、オオカミ少年」のように、とられていたように感じます。

各部局からの予算要求に対し、数字のつじつま合わせで削るのが財政課の仕事のように思われがちですが、私は、予算編成は、収支相償うのは当然ですが、予算としてのできばえを評価される立場にあることを意識し、課員には常に「予算は創造的な作業ぜよ」という表現で、目玉となる政策、政策をわかりやすくするための政策体系づくりに特に意を払ったつもりです。そのためには、予算要求を削るというだけでなく、財政側からも政策提案をすることも心がけてほしいと言ってきました。県知事はじめ幹部とも接する機会が多く、県政全体を見渡している立場、また県会議員とも情報交換の機会も多く、県民のニーズも把握しやすく、財政効率もしっかり勘案できる財政当局こそ政策づくりに大きな役割を果たすべきという考えからです。その一例として、高知県はまんが家を沢山輩出している県ということから、まんがのイベントをやろうじゃないかと当時財政側から提案して初めて県予算にまんがイベントが登場したことがきっかけで、その後、芽生えたまんがの種が発展して見事に全国に知れ渡る「まんが甲子園」として花開いたものです。

財政課は、季節労働的なところがあり、12月から2月にかけての当初予算編成、9月の補正予算編成、3月、6月、9月、12月の定例県議会開会の頃を除いては、のんびりできる期間があります。のんびり期間は、5時過ぎになったら、さっさと家に帰り、子供と遊んだり、県内を車で走り回ったりと、実に優雅に楽しい日々を過ごすことができました。3人の子供達も幼稚園から小学校の時代で、家族でいっしょの行動をする機会の多い時期でもありました。高知県は、山、川、海が最高です。毎年、夏休みには高知県内最高峰瓶が森に家族で登り、頂上に近い山荘で泊まるのが恒例でした。渓谷や室戸海岸が好きで、岩登りをしたり、水遊びをしたり、当時の写真を見ながら思い出に浸っています。

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22.減量、減塩、休肝のススメ(高知県保健環境部長の頃その1)
高知県財政課長の任を終え、昭和59年4月一旦自治省税務局企画課理事官として自治省復帰していました。公務員宿舎は世田谷区深沢で、すぐ前に広大な駒沢総合運動公園、学芸大附属中などがあり、自由が丘にも近く恵まれた環境にありました。子供達も高知から転校して深沢の小学校、幼稚園に入って1年、やっと慣れてきた頃、再び高知県に部長として戻ってきてほしいという要請を受けました。同じ所に2度勤めというケースはよくあることで、むしろ光栄に感じ喜んでお受けすることになりました。もっともまた引っ越し作業があり、子供はまたもとの所とはいえ転校ですので、大変です。とくに、長女は、4年生にして新宿区立西戸山小学校を振り出しに高知市立追手前小学校、世田谷区立深沢小学校と3つの学校を転校してきましたので、このあと再び高知の小学校に戻った後、土佐女子中学校に進学したときにまた転勤を告げると「もう転校は嫌だ」と言い張ったのも無理はないわけで、とうとう中学生ながら一人高知に残って親と離れて生活をすることとなったのです。

それはともかく、1年前まで暮らしていた高知に戻り、また同じ県庁に勤めることは気持ちの上では楽で、多くの友人に歓迎されて楽しい日々を送ることができました。

発令された保健環境部長という職は、多くの県では昔から衛生部長という名称で呼ばれていたポストで、当時環境問題がウエイトを増してきたことから「環境」という名を組織名として前面に出すようになっていました。全国的には衛生部長には医師が配置され、また当時の厚生省から派遣されることもよくあるポストでした。確か当時全国の都道府県で医師でない事務屋の衛生部長は、私も含め5人だけでしたが、厚生省主催の全国衛生部長会議の席上、厚生省の局長が「最近、医師でない衛生部長が増えているのは問題だ。皆さんからも人事当局によく言っておいてほしい。」と、われわれ事務屋の部長も出席している前で発言したのには唖然としました。

そんなこともあり、初めての分野の仕事でしたが、厚生省にバカにされないように、なにくそと自らも勉強もし、医師の課長から何でも聞き教わる努力をしました。あまり関係ないかも知れませんが、何をかくそう、実は私は、高校時代は、「生物」が得意科目で、高校3年生の時の旺文社全国模擬試験で、生物を選択した全国5万人中5番の成績だったのです(ジャジャ〜ン、オット)。一時は医学部をめざそうかと思っていたぐらいですが、当時理科系の必須とされていた「物理」が全く興味を持てず理科系をあきらめた経緯があります。

幼少の頃から頑強な方ではなく、アレルギー体質で、風邪もひきやすく、中学校時代は、立ったままの朝礼が苦手で、ときどき貧血を起こして座り込んだりするタイプでしたので、人一倍「健康」に興味を持っていました。そんな私がほとんど風邪もひかずかなり無理をしても元気になってきたきっかけは、前にも触れましたが大学時代の体操部入部と養命酒の愛用、そして国家公務員課長補佐宿泊研修から始めた毎朝のラジオ体操です。自分なりの健康法を会得していたつもりでしたが、こうして健康を所管する部長になっていやがうえにも専門的に学ぶ機会が増えると、「ああ、そうだったのか、納得!」と日々新しく知ることばかりで、楽しくもありどんどん医学的疫学的知識がふくらんでいきました。

「がんばりっ子は朝食から」「父さんの健康は減量、減塩、休肝から」のキャッチフレーズで県民の健康キャンペーンを強力に進めたのがいい思い出です。前者は、当時高知県が独自に行った小学生の食生活実態調査から、約1割の子供が朝食を食べないか時々しか食べていないという実態を知り大きなショックからできたキャッチ。後者は高知県の女性は平均寿命は全国平均を上回っているのに、男性の平均寿命が全国の最下位クラスにある、しかもアルコール関連の疾病が原因で亡くなる割合が顕著に高いというデータからできたキャッチ。

キャッチフレーズをああでもないこうでもないと議論した当時の場面を今でもよく覚えています。議論するメンバーの中の肥満体の職員の方をちらちら見ながら、「「減量」は絶対に入れるよ」。大酒飲みの職員の方をちらちら見ながら「「休肝」も入れたい」と主張したものです。「酒王国土佐で、「休肝」なんて言ったら袋だたきにあいますよ」といさめる職員もいましたが、それではということで、酒造組合の方に打診したところ、「大酒飲んで短命より、適度に飲んで長生きしていただく方が、酒の消費量も増えるかもしれませんね。私たちも酒は百薬の長を実践していただきたいし、適正飲酒はみんながハッピーだと思っています。どんどん進めてください。」ということばをいただき、さすが酒王国と感心したものです。

あれから20年、これらのキャッチこそ、「食育」、「生活習慣病」、「メタボリックシンドローム」が健康維持増大の国民運動となった今に通じる先見的な指針だと自負しています。

保健環境部長の2年間に学んだことは、その後の自らの強靱な健康体を保つのに大いに役立ったと思いますし、今、ホテル経営のかたわら、調理師学校で食を扱うことを職業としようとしている若者達に「衛生法規」を教える立場になっているのも、その時の経験が基になっているものです。

そんな有意義で、楽しい2年が終わろうとしている昭和62年2月、高知県で思いもしない大事件が起こったのです。

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23.エイズ事件(高知県保健環境部長の頃その2)
昭和62年2月半ばのことでした。県政記者クラブの記者が部長室に来て、「エイズに感染した高知の女性が妊娠しているという週刊誌の記事が近く出るらしいですよ。ほんとですか。」と言うではありませんか。

その前年の11月には長野県松本市のフィリピン人女性がエイズウイルス(当時はまだHIVという言い方をしていなくて、あまり正確な表現ではないですが)のキャリアであったという報道があり、翌昭和62年1月(高知の事件の1ヶ月前)には、神戸で日本人女性のエイズ患者が死亡するという報道があり、実名や顔写真まで明らかになったことから、「エイズパニック」という様相を呈し、報道のあり方やエイズについての知識普及の不十分さが問題になりつつあった矢先のことです。

どういう展開になるのか眠れぬ夜でした。翌朝まだ寝ている頃から自宅の電話が鳴り始め、「エイズ感染女性が近く出産」の一部早朝報道に対し、他の各社から問い合わせが殺到しました。それからというもの新聞、通信各社はおろか週刊誌やフリーライターなど連日のように取材陣が押しかけてきて、夜討ち朝駆け休む間もなく、部長室にも列ができる有様でした。

喧騒の中、経験したこともないハプニングに、フッと「ああ、これで公務員生活もおしまいかなあ。」という不安がよぎり、終焉のメロディが頭の中で鳴り響いたものです。

混乱の一段落した夜中になって保健環境部幹部職員を集め、今後の対策をやっと協議しました。ともかく、松本市や神戸市のようなパニックにならないよう行政としてできる限りの手を打とうということで、3つの方針を決めました。

その1は、その女性と生まれてくるであろう子供のプライバシーを絶対に守り通すこと。その2は、エイズに対する正しい知識を早急に普及し、混乱を抑えること。その3は、生まれてくる子供に感染させないよう万全の努力をすること。

幸いその女性の名前も所在も私は部下から聞いていなかったことから、絶対に私にプライバシーに属することは教えてくれるなと厳命し、報道の一切の取材の窓口は私一本にすることとしました。今と違って個人情報保護の観念が希薄な時代でしたので、いかに報道陣にプライバシーを守ることが大切か、実名や写真報道されることでいかに本人や周辺の人達が傷つくか、またパニックが起こるかということを押しかける取材陣に根気強く説得しました。記者クラブとも何度か話し合いをし、プライバシー以外のことについては、出産の模様なども含めできるだけ情報を提供することを約束し、理解を得ることができました。

報道規制ということではなく、人権尊重、混乱防止の観点から個人情報を守ることの重要性を理解いただき、報道自粛ということだったと思います。さすが県政記者と感心もし、嬉しく感じましたし、日頃からの信頼関係の大切さも痛感したことでした。

ある写真週刊誌の記者は、「プライバシーのことはよくわかりました。しかし、われわれは写真がないと困るんです。」と主張するものですから、「それじゃあ、私の写真ではだめですか。」と言うとしぶしぶ私の写真を撮って行きました。翌週のその写真週刊誌を見ると、「絶対に名前は言えません、と頑張る高知県の松尾保健環境部長」と見出しがついた私が椅子に腰掛けて頑張っている写真が一面に大きく掲載されていました。その写真週刊誌はその何年か後に廃刊となりました。

とにかく知らないというのは強い。いくら「○○に住んでる人みたいですねえ」とか「△△に勤めていた××さんらしいですね」とカマをかけてきても本当に知らないから顔の表情にも出しようがありません。ということで、最後まで名前も写真も出ることなくプライバシーを守り通すことができました。信じてもらえないかも知れませんが、今でも私はその女性の名前も所在も知りません。もう知る必要もないことです。こうした報道のあり方は高知方式としてその後のエイズ報道の先例となったと聞いています。

エイズは普通に生活していれば感染するものではないということをパンフレット、テレビ出演、テレフォンサービスなどで徹底的にPRしました。県下の医師を集めてにわか勉強のエイズ知識を講演したりして、一躍「エイズ博士」になってしまいました。高校時代、生物が得意科目であったこともあり、最新の情報を収集して懸命に勉強しました。エイズウイルスはリンパ球にとりつく。従ってリンパ球の多い体液、つまり血液、母乳、精液に気をつけろ。感染しても医学的管理の下で発症を抑制できる。などが当時の情報から得た知識。「災い転じて福となす」エイズ事件は不幸なことですが、必死の対応で、当時高知県は一躍エイズ対策先進県となり、全国の県から問い合わせや視察にみえました。

子供に感染させない。これはすぐれて医学的専門分野のことで、担当医師に任すしかない分野ですが、医師も世界の出産例を収集し、研究を重ねていただき、感染可能性は5分5分と考えていました。胎盤を通して感染する可能性は多くないと判断し、出産の際の出血を抑制すること、誕生後の全身洗浄、母乳を使わないなどが主な対策でした。そのため、電気メスを使っての帝王切開が出血が少ないと判断され、誕生後は消化器、呼吸器に至るまで、薬剤で洗浄したようです。

これらの対策は見事に功を奏し、子供には感染していなかったことがわかりました。「感染せず」の発表により、あわやパニック状態に近かったエイズ事件は潮が引くように沈静化したのでした。

いろいろな噂が飛び交い、風評被害でお店が閉まったところもあったり思わぬ被害を被った方も少なくなかった2ヶ月間の嵐のような日々のエイズ事件でしたが、関係者の懸命の努力によりハッピーエンドに終わることができました。この時ほど多くの人の力で助けられたという思いをしたことはありません。

しかし、この事件の発端となった女性の交際相手の男性は非加熱輸入血液製剤を使っていてエイズに感染した血友病患者の方だったことから、輸入血液製剤を巡って厚生省やエイズ研究班の大きな責任問題に発展したその後の展開は、当時の私たちでもうすうす感じられたことでした。

この事件の処理がほぼ終わるやいなや総務部長に転任しましたが、一難去ってまた一難、そこでも思わぬ事件に巻き込まれることとなるのです。

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24. 上海列車事故(高知県総務部長の頃)その1
昭和62年保健環境部長から総務部長に転任しましたが、自治省との関わりも深く、財政課長で過ごした部でもありますので、古巣に戻ったようななつかしさと、いよいよ本領発揮するときとばかりはりきっていました。相変わらず財政の厳しい時(考えてみると経済の脆弱な高知県の財政は常に楽なときはなく、財源が比較的伸びている時でも需要も多く、結局大なたを振るわなければならない状況が経常化していたように思います。)で、3年ぶりに予算査定をすることとなりました。

組合との勤務条件交渉は、行政改革真っ盛りで、現場部門の民間委託や人員配置、財務会計システム導入をめぐり厳しい場面があり、シーズンの1月、2月は、予算査定とも重なり胃の痛くなるような毎日が続きました。

昭和63年の3月定例議会を終えた頃だったと思います。3月24日の夜のことでした。なにかの懇親会であまり飲めないのにしこたまお酒をいただいたものですから途中で失礼してタクシーに乗って帰途についたとき、乗るなり運転手さんが、「えらいことですよ。中国で高知学芸高校の修学旅行生が列車事故に遭ったらしいですよ。」と言うではありませんか。「へえー、そりゃ大変ですねえ。」と言葉を返しましたが、その時は、「県立高校ではないし、学校のことだから教育委員会が対応するのだろう、大変だなあ。」と思い、そのまま帰宅したことです。

帰宅するともうテレビがひっきりなしに事故報道をしていて、学芸高校が大騒動になっている様子が映し出されていました。そのときもまだピンときていなかったのですが、しばらくして、県から電話が入り、「部長大変です。上海で学芸高校の修学旅行生が列車事故に遭いました。そのことで、文部省から電話が入ってこちらの様子を教えてくれとか、係の者を派遣するとか、文部大臣がこちらに来られるとか言っています。」と興奮した口調でしゃべるのです。それは教育委員会の対応ではないのかと聞き返すと、「私学は総務部の所管です」という言葉が返ってきて、ハッと気が付いたことです。私学は行政は介入しないのが原則で、私学補助をすることぐらいしか日頃のお付き合いがないのが実態でした。ともあれ、行政の入り方は難しいにしろ行政側の窓口になることは確か。「こりゃえらいこと、大変だ大変だ」ということになって、学校との連絡、文部省との連絡など指示をして、まずは情報集めにおおわらわ。とにかく異国でのこと、ましてや当時の中国ですから、中国現地の学校関係者からは今と違って携帯電話があるわけでもなく、直接に連絡がとれる状況ではない。情報ルートが限られ、マスコミ報道の方が早かったり、文部省や外務省の外交ルートからの連絡が頼り。情報も混乱を極め、「○○さんが重傷、△△さんが死亡」というテレビテロップが流れ、死亡情報が実名入りで報道された後に生存が確認されたりの状態で、学校に心配で集まってきた家族はおろおろするばかり。

とにかく、情報のほとんどが文部省経由でくるものですから、文部省も県を窓口にいろいろ指示やら相談事が来る。当時の中島文部大臣は、今振り返ってもよくリーダーシップを発揮され、高知にも来られる等てきぱきと動いておられた印象です。早速文部省から係官が高知に派遣され、学校と県、文部省との連絡役として忙しく活動してくれました。

直後の情報では、死者27名(生徒26名、先生1名)、重軽傷者多数(40名前後)、その後重傷の生徒1名は帰国後病院で死亡。まずは遺族の現地派遣。特別のはからいで、日本航空の飛行機が高知空港から直接上海空港にチャーター派遣されることとなりました。ツルのマークのJALが高知空港に離発着した初めての日です。報道陣や学校関係者、遺族関係者が一様に悲痛な表情の中で空港でごった返していた状況が今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。

ご遺体と共に遺族を乗せて帰ってきた飛行機が高知空港に到着したときの悲しい現実を目の当たりにしたつらさは一生忘れられません。

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