10. 高校生の頃・・・学校生活編
広島というところが、悲しい歴史を持っているということは、住んでみて初めて実感することとなりました。当時の私の学校の先生の中には、首に大きな火傷の跡が残っている方がおられ、とても明るい先生でしたので、気になっていましたが、後に原爆の被爆者で、傷はその時のケロイドだと知り、ショックでした。それから、原爆資料館や原爆ドームに行き、いろいろな本で、当時の悲惨な状況を知ることとなりました。学校の友達のうちかなりの人が被爆2世であり、家族や親戚に被爆者がいる人であるのを話しているうちに知り、戦争というものについて、身近に考えさせられた青春の一時期でした。

「広島大学教育学部附属高等学校」という長ったらしい名が、私が通った高校の正式名称ですが、広島では、一般に、「広大附属」とか、単に「附属」と呼んでいました。広島の当時の進学校のライバルは、修道高校でしたが、なんといっても広大附属は、地元では、憧れの「お坊ちゃん、お嬢ちゃん」校で、ここを目指して競い合うほどの学校です。私は、入るまでは、そんな風にみられている学校とはつゆ知らず、ただ受かったから入ったぐらいのものでしたから、周囲の見る目、入っている生徒のいかにも秀才だぞというような態度、顔つきがあまり好きではありませんでした。寮の壁に先輩がそのことを揶揄して書いたらしい「附高的冷笑主義を打破せよ!」ということばが妙に印象に残っています。

高校は一学年5クラスですが、附属小学校から上がってきた生徒、附属中学から上がってきた生徒と高校から入ってきた私のような生徒と3種類があって、なんとなく、高校から入った私たちが、最初はよそもの、新入りという目でみられているように感じていました。その中でも特に県外からの寮生は、ことばからして広島弁ではない、それぞれのお国なまりがあるものですから、特別の人種のように見られているようで(被害妄想かもしれませんが)、しばらくは雰囲気になじめず、つい寮生同士がたむろするような状況が続いてしまいました。
 
国際都市広島と私の生まれ育った田舎のまちとの決定的な差は、英語の発音でした。英語のReader(読解)の時間、指名されて、中学時代、得意と思っていた英語ですので、堂々と読みましたが、ところどころで、「くすくす」と笑う声が聞こえるではありませんか。間違った読み方をした覚えはないのですが、急に自信を失ってしまいました。その時、先生に指摘を受けた発音は、honeyについて、私は、「ホニイ」と思い込んでいてそう発音しましたが、「ハニイ」と直されました。確かに、今から思うとhoney moonは、「ハネムーン」であって、「ホネムーン」ではないんでしょうね。その時の英語の先生は、若い私にはなんとなく胸のときめく素敵な女性の先生でした。それだからこそ、よけいにショックは大きかったもので、今でもあの時の顔から火が出るように赤面した気持を覚えています。出端をくじかれたものですから、とたんに手をあげるのがちゅうちょされ、しばらく引っ込み思案になってしまいました。また、習ってきた中学時代の教科書が違うせいか、中高一貫教育のせいなのか、私が習っていないことをどうも他の多くの生徒は知っていたりする場面がちょくちょくありました。そのため、寮に帰ってなんとか恥をかかずに追いつくため必死で予習・復習をする毎日でした。

驚いたのは、ちゃんと字が読めない生徒がいたということです。この難関校で、どうしてと不思議に思っていましたが、どうも、附属小学校からエスカレーターで途中落とされることもなく上がってきた生徒は、受験という試練も目標もなくきているために、こういう事態になっていると感じました。この経験とよく似たものとして、後に、自分自身の子供を中高一貫の私学に入れたものですから、私と比較して、落ちるかもしれないという緊迫感のない状況では、自宅での勉強時間そのものも私の頃よりずいぶん少ないなと感じました。頭の最も柔らかい記憶力の旺盛な中学時代にやる気になって必死に勉強する環境がないことは、決して本人のためにならないのではないかと実感しています。中高一貫教育の弱点でしょう。

私は、英語、数学、生物、化学が得意でしたが、物理は、先生が病気で、臨時の先生が教えてくれましたが、説明はぼそぼそ、黒板に向かって小さい字でぎっしり書くことが多く、全然興味が持てず、とたんに不得意科目になってしまいました。それまでは、大学は理科系だと自分で決めていたのに、理科系を目指すためには物理は必須だと誰に言われることもなく思い込んでいたこともあり、このことがきっかけで、とうとう理科系をあきらめて文化系に鞍替えする決意をしました。あの時、理科系でがんばっていたら、どちらがよかったかわかりませんが、その後の進路、人生はがらりと変わっていたことでしょう。先生の教え方一つで人生が変わってしまうのです。教師がいかに生徒に影響を与えていることか身をもって知ったことです。そう自覚しながら、今は専門学校で教鞭をとる立場になっていますが、こんどは教えることの難しさを感じています。

高校2年の時、寮生の親友が生徒会長に立候補すると言い出し、そのあげく私に事務局長をやってくれと頼んできました。中学時代の経験もあったことから、つい気軽に引き受けてしまいました。運動会等学校行事の企画や、校内討論会なども実施し、大変でしたが、一つの思い出になっています。勉強も忙しくなる中、生徒会のことで疲れもたまったのか、2年の秋の修学旅行の直前になって風邪をこじらせて肺炎を引き起こしてしまいました。とうとう療養のため1ヶ月近く実家に引き戻され、楽しみにしていた修学旅行はそのせいで行けず、高校時代の楽しい思い出となるはずの1ページが飛んでしまったのが悔やまれます。

病気が全快してからは、遅れてしまった勉強を取り戻すことと併せ、一挙に受験体制に入っていきました。その頃から「東大にいくぞ!」と決意しました。ちょうど高校受験のとき、目標を決めてまっしぐらに突き進んだあの意気込みが出てきました。難しいものに挑戦しよう、自分にできないはずはないという過信にも似た自尊心の強さがそうさせたのでしょうか。しかし、その頃、成績は、校内でも20番前後で、この調子では東大はすれすれ。なかなか伸びませんでしたが、毎日ノルマを決めて、学校から帰って寮で、一日7時間は勉強をすることとしました。同じ科目を長時間やると疲れるので、工夫をして短時間ずつ5科目を参考書一日何ページずつと目標設定し、忠実に実行しました。その時は、「高校3年のこの時期は、灰色でもいい、真っ黒でもいい、とにかく今のこの時期にがんばれば、バラ色が待っている」と、自分に言い聞かせてバラ色の日の来ることを夢見ながら、頑張り抜きました。今から振り返ってもよく勉強したと自分で自分をほめてやりたいくらいでした。

いつの頃からか自分は「朝型」の勉強が向いていると思い、夜10時には床について、朝3時か4時に起きて勉強する毎日でした。その時間帯は前日から夜型の寮生が勉強を終えてそろそろ寝ようかとしている頃で、学習室で、お互いしょぼしょぼ目でバトンタッチする毎日でした。寒い日は布団の中にスタンドを持ち込んで勉強をしました。だんだん夜が白み始めると、頭がさえてきます。近くの操車場の蒸気機関車のシュッポシュッポの音が聞こえてくるのを覚えています。しばらくすると、起床係の大声が寮内にこだまして、あくびをしながら、みんなが起きてきます。一勉強終えて、きょうの一日が始まるあの充実感のあるさわやかな気持が、青春の思い出としてなつかしくよみがえってきます。そうした努力は必ず報いられるものです。みるみる成績は上がっていき、3年秋の旺文社模擬試験では、校内2番、全国(10万〜20万人)の100番以内に入ることができました。とくに、選択科目の生物は、5万人中5番。やればできる。そのことを実感したことです。

受験は、東大一本。そこしか受けませんでした。落ちれば浪人してでも再挑戦と決めていました。東大の試験問題は、他の大学のものと比べて、いわゆる難問といわれるひねった問題が少なく、オーソドックスに基礎をしっかりやっていれば大丈夫と思っていました。受験当日は、初めての東京でしたので、やはり父親がいっしょについてきてくれましたが、久しぶりに父といっしょに旅をし、宿で話すいい機会となりました。宿で、父の肩をもんでやったのを覚えています。当時父は53才で、今の私よりも若かったですが、もうすっかり頭がはげあがっているのを改めて発見し、自分もいずれは・・・と思ってしまいました。

試験は、高校を受けたときと同様、思ったよりやさしかったという実感を得たところから、なんとなくニンマリとして帰ることができました。「合格おめでとう」の電報をもらって、家族中大騒ぎをした夜は、当時は夜遅く合格者の名前をラジオで発表していましたので、眠い目をこすりながら、雑音の入る中を確かに自分の名前を聞き取って「ああ、やったぞ、よかった、よかった」と、改めて喜びを噛みしめました。広大附属からは、その年東大には34名合格し、そのうち現役が20名近くいたと思います。私のクラスからも現役で5名が合格しました。

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11.大学生の頃…体操デビュー
憧れの東大についに入りました。赤門をくぐり、安田講堂前に立つとその実感が湧いてきました。しかし、1,2年生は、その本郷キャンパスではなく、目黒の駒場キャンパスだと知ったのは合格の後でした。寮はありましたが、思い切り汚く、どうも学生運動の巣のようなところがあったりしているようなうわさを聞いていましたので、高校時代の寮生活のイメージを壊したくないため、下宿することとしました。下宿は大学のすぐ近くにみつかり、いわゆる間借りで、民家の一部屋をお借りする形でした。環境も部屋も家主さんもとてもいい所でした。後で知るのですが、家主さんの娘夫婦が同じ敷地内の別棟に住んでおられて、旦那さんの方が当時日比谷高校の英語の先生で、大学の同じクラスの親友の恩師だと知り、世の中は狭いものだと思いました。

寮と違って部屋に帰ってきても誰もいないのが、なんとなく寂しく感じました。部屋は6畳一間で、自炊設備はありませんので、外食です。初めて自分で毎日の夕食を選んで食べることになったわけですが、これが結構大変でした。なにしろレストランは限られていますし、資金の問題もあります。3箇所くらいのレストラン、食堂を順に食べ歩くことになりましたが、どうしてもパターンが決まってしまって、だんだん飽きてしまい、夕食の時間が来るのが憂鬱でした。お風呂は、初めて銭湯に通うようになり、少し距離はありましたが、なんとなく江戸情緒があって好きでした。今でも、カラーンコローンと木の洗面器が床にこすれ合う音が聞こえてくるようです。

駒場では、クラス分けがあり、第2外国語にフランス語を選んだ文化系の約40名のクラスでした。この同じクラスからは、後に、官庁に入った者が比較的多く、自治省、建設省、厚生省、通産省の各省に6人が入り、うち建設省に入り現在岡山県知事の石井正弘君も当時の同じクラスの親友です。

クラブ活動は、いよいよ念願の体操部に入りました。中学時代に鉄棒が大好きで「鉄キチ」だったのですが、クラブがなく、仲間と楽しむだけでした。高校時代もクラブはありませんでしたが、同じように体操が好きな仲間を募り、体操同好会を作りましたが、鉄棒、マット以外は器具がなく、ちゃんとした練習になっておらず、首尾良く大学に入ったら絶対に体操部に入ろうと決めていました。当時、オリンピックでも体操は日本のお家芸のような人気スポーツでしたので、結構体操志望者は多く、鉄棒の蹴上がりもできない全く未経験の者も何人かいましたが、高校時代から体操部に所属していた人も多く、吊り輪で2回宙返りやひねり技をこなす選手もいて、レベル差はかなりのものでした。私も吊り輪、跳馬、鞍馬、平行棒は全く初めて触れるもので、吊り輪にいたっては、やさしそうで、初心者は、ただぶら下がるだけで、どうもがいても上にも上がれず振ることもできず、なんとも情けないことになりますが、私もその部類でした。鞍馬も、両手で支えるのがやっとで、右にも左にも動かしようもない状態でした。思ったより難しいのに、失望しましたが、同じ状態の者も何人かいたのと、先輩がそんな初心者もやさしく教えていただいたこともあり、すいすいと難度の高い技をこなす先輩の姿を夢見て、なんとか続けることができました。新しい技を教えていただき、少しずつ成功する度に先輩におだてられて嬉しくなってしまうことが、励みでした。

初めての他流試合の相手校は、京都大学体操部でした。今でもそのときの緊張の状況をよく覚えています。しょっぱなが床運動。当時はマットなしの本当の板の床。「失敗すると痛いやろなあ、嫌やなあ」と思うと、とたんに心臓がぱくぱく。まだ「心、技、体」とも未熟そのもの。固い体がよけいにコッチンコッチン。走り出してまず前方宙返り。どっしんと尻もち。固い板の床にこじゃんと尾てい骨を打って「イッテエー」。それからは、もうハチャメチャで、記憶は定かでありませんが、とにかく、演技のフィナーレにピシッと決めるべき後方宙返りが、スタミナ不足で、足がダレて、ぜんぜん宙に浮かばず、みごとにひざ落ち。これがまた、ひざの皿が割れたかと思うくらいに痛いの痛くないのって。しばらく立ち上がれず、結果は、3.5(もちろん満点は10点ですが、こんな点数もあるんです。もちろんその後精進して、7.5を出したこともあるんです)。私は、現在は東大体操部OB会に属しており、現役諸君からときどき会報を送られてきますが、それをみるとなんと2.8というような点数の選手がいるじゃありませんか。いったい、どんな技をやってこんな点数が出るのか、やっぱり似たようなもんじゃいかとくつろいでいます。

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12.大学生の頃・・安田城落城
法学部の専門課程は、本郷キャンパスです。下宿も、大学まで近い下町情緒あふれる白山に求めました。白山は地盤が低いところで、旧町名の看板が街角にあったのが妙に印象に残っており、確か「丸山福山町」とかで、八百屋お七の碑が近くにあって、「熊さん、八つぁん」が出てきそうな江戸情緒あふれるところです。狭い通りをお風呂に行く道すがら歩いていると、夕暮れ時、縁台でべらんめえのすててこ姿のおじいさん二人がうちわであおぎながら、将棋をさしている。その回りを子供たちが追っかけっこをして騒いでいる。朝早く「プォー、プー」と豆腐屋のラッパが聞こえてくる。そんな下町の喧噪な風景が今でも浮かんできます。私の性に合っているような、懐かしい心の落ち着く下町の生活でした。
下宿は崖下のようなところにあって、通学は、まずその崖の石段を登っていきます。上がり着くと、別世界。そこは西片の高級住宅街で、崖下の庶民の生活の喧噪さとうってかわって、咳払いもはばかられるようなシーンとした静寂に包まれています。毎日、あまりに違う東京の下町、山の手の両風景を見歩きながら、日本の縮図を体感してきました

専門課程になると、駒場のように体操部にも参加できず、公務員試験を意識して、教室、図書館、下宿の三角形を忠実にたどる生活が基本となりました。しかし、なにかのきっかけで、パチンコに凝ってしまい、三角形が少し四角形になったり、はしごして八角形になったりして、ささやかな娯楽とストレス発散になっていたようです。パチンコはもちろん当時は左手の親指の爪で玉を押し込みリズミカルに右手ではじくレトロな方式ですが、チューリップが一回開いたすきに、すばやくそこに正確に沢山の玉をドドドッと打ち込んで、チューリップが閉まりたいのをだめだめと開きっぱなしの状態にさせる技術は、我ながらなかなかのものでした。ある休日、試験の終わった後の解放感で、朝から池袋にパチンコ行脚。きょうはうんと稼ぐぞとはりきってでかけましたが、妙に調子が出ず、とうとう13件のパチンコ屋をはしごしてしまい、夜10時の「蛍の光」の音楽で、しかたなくスッカラカンになって、帰途についたその時の空しい気持ちが忘れられません。「あ〜時間と金の無駄だ。くそっ、もう2度とやらないぞ、こんなつまらんパチンコなんか。」と、その時は一応決意したものでした。

世の中は、学生紛争が激しさを増してきていました。東大でも医学部の改革が直接の引き金となって全学的に拡大し、収拾がつかない状態にまで発展していました。確かに、白い巨塔と言われてきた医局の前時代的な独特の社会に疑問を呈し、改革を叫んだ学生たちに対し、私も含め当時の多くの東大生も共感を覚え、理解を示し、「東大」という古い体質を改善すべきは当然と思っていたと思います。ちょうど、現在、日本の社会全体が「よき時代」の体質に対し、意識改革が迫られ、いやが上にも痛みを伴う改革を余儀なくされている状況とよく似ていたと感じます。当時は、学生だけが騒いでいるような印象の社会風潮でしたが、当時の私の気持ちとしても、「社会のいろいろなしがらみや立場のない学生こそ、最も物事を純粋に受け止め真剣に考えているんだ」と思っていました。いや、むしろあの学生紛争があのようにエスカレートして武力闘争にまで発展しなければ、もっと多くの支持を得たでしょうし、大学だけでなく、日本の社会全体の古い体質の転換にまで結びついて、もっと早く今で言う「改革」が進んでいたかもしれないと、振り返っています。

ちょうど当時中国では文化大革命の進行中で、紅衛兵が闊歩し既成の権力や理論が「批判」される大混乱のさなかであり、東大の正門の柱に白ペンキで「造反有理」の大きな4文字が書き殴られていたのが、中国に触発された当時の状況を象徴するものとして、印象的でした。学内は、大学批判、教授批判が渦巻き、学内外で、ゲバ棒持ってタオルで顔をかくし、ヘルメットをかぶってジグザグデモを繰り返す光景が日常的になっていました。教室が破壊され、東大のシンボルでもある安田講堂が占拠され、学部のストが行われ、総長や教授との「大衆団交」が頻繁に行われるなど、どんどんエスカレートしていきました。

そのうち、東大だけの問題ではなく、東大が全国の学生紛争のシンボル化し、「外人部隊」と呼ばれる他大学の過激派学生が集まるようになり、その頃から、だんだん一般学生がついていけない遊離した「一部過激派」による「大学破壊」へと展開していきました。「ノンポリ」(無関心派)、「シンパ」(心情的理解者)、「活動家」、「過激派」、「武闘派」など、学生もいろいろな表現で色分けがされていました。私はというと、シンパの方だったと思いますが、学内に他大学の外人部隊が入り込んで、竹槍で戦闘訓練を始めるに至っては、「出ていけ」と叫ばざるを得ない気持ちになり、早く終わってほしいという厭世気分に変化していったように思います。現に、安田講堂が主として外人部隊武闘派で占拠されてからは、夜、武闘派が寝泊まりする講堂方向に向かって、届きもしないのに憤懣やるかたなくそこらの石を拾って投げつけたような記憶があります。

安田講堂に機動隊が入り、抵抗する学生たちに対し、2日間にわたって放水、催涙弾攻撃をしかけ、とうとう安田城が落城したのが、忘れもしない1969年(昭和44年)1月19日、私の22歳の誕生日の日でした。

戦場となり徹底的に破壊され、催涙ガスの漂う学内には、当分入れず、講義も行われず、卒業試験もレポートの提出に代えられました。なにより残念なのは、卒業の日が3月31日ではなく、全員6月30日と3ヶ月延期されたことです。こうした特別な事情のため、すでに決まっていた自治省の入省もみんな7月1日採用と延期されましたが、今に至るまで、履歴書を求められると「6月30日卒業」と書かざるを得ず、その都度、「追試で遅れたのではなく学生紛争のせいで…」と説明をしなければならないのがつらいことです。それだけではなく、東大の歴史始まって以来初めて、その年の入学試験は行われず、東大をめざして勉学に励んだ多くの受験生はどんな思いだったでしょう。

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13.自治省入省…多士済々
父の自らの経験から進路のアドバイスをもらい、公務員をめざそうと本気になったのは3年生になってからです。大学入学当初は、法学部に入る限りは、弁護士、裁判官など法曹界に進むのがなんとなく自分に与えられた道のように思っていましたが、法律ずくめの毎日、特に実体法ではなく、手続法の分野にあたる訴訟法という無味乾燥、法律技術的で、およそ面白味のない勉強をしていると、「こんな法律相手の仕事を一生するのは堪えられない」という気持ちになってしまいました。そういう心境の変化から、公務員になって、世の中がよくなるように、人さまの幸せのために、幅の広い行政の仕事をやりたいという気持ちが高まってきたのでした。

当時は、国家公務員試験の1次試験に合格すると、官庁回りが始まり、目当ての官庁をはしごします。私の場合は、地方で仕事がしたい、どうも東京の生活はあまり性に合わないという気持ちから、第一志望自治省で、大蔵、通産もみんな回るので、おつきあいで回ってみましたが、人事担当者の印象がやっぱり自治省が一番よかったことから、1本に絞り込みました。人事担当者というのは、各省庁でも出世コースに乗った人でしょうから、人事担当者の質を見ると、その省庁でどんなタイプの人が大切にされるのか、どんな気風・体質なのかそのタイプやレベルを推し量ることができます。こんな風に、選ばれる立場ではありながら、こちらもしっかり選んでいるという意味では、窓口の人事担当者は看板になるような人を配置しないといけないものだなあと当時から感じていました。

ともかく4年生在学中に無事国家公務員試験に合格することができ、在学中にも自治省入省予定者の集まりがよくありました。結局採用予定者は20人で、うち京大1人、東大19人。その中には、法学部の700人入る大教室での授業で、いつも一番前の方に陣取って、よく手を挙げて質問をしていた法学部生羨望の的のような人もメンバーに入っていて、自分もなんだか有名タレントの仲間入りしたみたいに嬉しくなり、「これはなかなかハイレベルの仲間に入れてもらったものだ」と誇りに思いながらも一方で「こりゃ大変だ、落ちこぼれないようにしなければ」と、緊張感を高めたものです。(しかし、どうしたことかその人物ともう1人の東大生は、結局正式入省前に自治省に入ることをやめて、確か大学に残ったと聞きました。なぁんだ。)結局、入省した同期は18人、結構44年入省組は、多士済々でした。ただ、一旦自治省に入っても自分に合ってないと感じる人もいるようで、入省後中途で退職して、弁護士になった者3人 、大学教授になった者1人、他の民間会社に移った者1人のほか、不幸にもある日ポックリとなくなった者1人と、私のように半ばにして政治の世界へ飛び込んだもの2人(私と橋本茨城県知事。退職後は石井富山県知事も)、1人欠け2人欠けで、結局最後まで勤め上げたのは半分ということになりました。

入省年次により、○○年入省組は元気がいい、○○年組はおとなしい、○○年組は変人が多い、○○年組は優秀、○○年組は不出来などなど勝手に評価がされており、おもしろい。優秀な人が多い年次は、ポストを独占してしまうので、その直後の年次にポストが回らず出世の被害を被るため、○○年災としてウラまれるというか、ウラやましがられるというか、あとあとまでウラさくが続き、迷惑をかける。ちなみに、わが44年組は、早くから退省者が多く出て、まとまりがないと評されていたみたいですが、幸か不幸かポストをとりすぎて他に迷惑を及ぼしたということはなく、比較的後輩思いの年次だったかなあと、後にして思っています。

入省後3ヶ月間は、研修期間で、初めの1週間は各省庁合同の研修、次の2ヶ月間は、自治大学校での地方自治研修と日米会話学院での英会話研修です。英会話研修があるとは意外でしたが、いい勉強になりました。しかし、その後の仕事にどれほど役に立ったかはよくわかりません。

地方自治研修では、自治省幹部の講話や各課の仕事内容について説明を受けましたが、当時の柴田護事務次官、宮沢弘官房長(後の参議院議員)などさすが自治省で偉くなる人は違うなあと、新人としては、うっとりとお話をお聞きしたものです。当時行政課の課長補佐の片山虎之助さん(後の総務大臣、現参議院議員)は、省内きっての「論客」「やり手」「大物」と評判の人でした。いろいろな方のお話をお聞きしていると自然に、自分は、こんな先輩のようになれるんだろうかと、憧れのような不安のような緊張感がこみ上げてきたものです。 

3ヶ月間は、外部に研修で出ることが多かったですが、一応、あいうえお順で税務局市町村税課に配属され、上司から、「市町村税のなりたち」について論文を書くようにと、調査テーマを与えられ、いろいろな文献を探し歩き、税の歴史を勉強させていただきました。このことは、後に再び税務局に配属されたときに、国税と地方税の違い、なかんずく所得税と住民税の課税趣旨の違いなど税制改正の際に常に問題となる基本を学ぶことができ、大変役に立ったと思っており、感謝しています。

ポストのない新人キャリアは、「見習い」と呼ばれ、配属課では年次の近いキャリア先輩が指導教官としていろいろ面倒をみてくれます。私の場合も3年上の先輩が本当に可愛がってくれ、飲みに連れてってもらったり、プールに連れてってもらったり、いろいろ省内のこと、先輩のこと、地方自治の問題点、自身の自治省に対する不満などなど聞かせていただき、おかげで一度に多くの知識、考え方も身に付き、新入生としての悩みもなく楽しく過ごさせていただきました。その先輩もつい数年前、50代で若くして急逝してしまったのが残念です。

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14.青森県赴任・・・青春時代
自治省に入ると、研修の後は、いきなり地方勤務です。まず地方の実態を体験的に学び身につけよという方針で、都道府県庁に配属されます。私たちの年次の配属人事方針は、出身地の対照的な地方への配置で、南の者は北へ、北の者は南へと、これまで体験したことのない気候風土の土地に住むこととなりました。鹿児島出身者は北海道へ、福岡出身者は岩手へ、私は山口出身で青森へ、広島出身者は新潟へ、東京出身者は徳島へなどと全国に散らばっていきました。

青森県庁に着任したのは10月。下宿先は、前任の見習い先輩の引き継ぎのところで、賄い付き6畳一間。もう夜は石油ストーブを焚いているのには驚きです。元旅館勤めの下宿のおばさんは、とても料理が上手で、やさしいが生活指導、しつけが厳しく、よく「松尾さんは魚の食べ方がへただべなあ」と笑われたものです。下宿には、公務員は私だけ、ほかにNHKの人、会社員が住まいしていました。NHKのアナウンサーのその人は、部屋でよくニュースを読んだりして発声練習をしていました。
食事は、魚が多く、初めて口にする「ハタハタ」「にしん」「ぶりこ」「ほっけ」など、海のものが好きな私としては、おばさんの食べ方教室もさることながら、毎日が楽しみでした。

本州の西の端、山口県の生まれ育ちの私としては、最北端青森の冬は、正直なところ楽しみ(?)でした。11月になって、いよいよ小雪がぱらつく日が増えてくると、ワクワク。12月のある早朝、吹き付ける風とともにぱらぱら窓をたたく音がする。障子を開けると「おーっ」一面の銀世界、いつのまにか一晩で1メートル近くも積もっている。「ドカ雪」の朝は、地上の音が死んでしまう。そんな表現が似合う。雪がすべての音を吸収してしまう。耳をすますと、遠くで、雪道を歩く「サクサク」、雪かきをする「カリカリ」、車のタイヤチェーン「カシャカシャ」という雪国の音が聞こえてくる。雪道を歩く、長靴に毛糸の帽子、手袋。両手をポケットから出して、さっそうと歩く。

スキーというものを生まれて初めて体験しました。友達に近くのスキー場に連れて行ってもらうことになり、スキーの道具一式を買いそろえたその夜は、下宿の前の雪道でスキーをはいてみました。はいて歩こうと踏み出したとたん、ずるっとすべってどっちんと尻餅。歩くのもままならない足かせのような感覚で、こんなものですいすいとすべれるものかとすっかり自信をなくしてしまいました。友達は指導員級のスキー名人で、青森での約2年間、シーズン中は、毎週土曜の午後、日曜と2日間は、スキー場で、やさしく教えていただき、ボーゲン、シュテムボーゲン、シュテムクリスチャニア、パラレルクリスチャニアと進歩し、とうとう青森離任の頃は、八甲田の山スキーツアーに連れて行ってもらいました。
「青森の春は青春だ」というキャッチフレーズのごとく、長い冬が終わると、根雪も溶け、すべての春の花が咲き乱れる。梅も桜も桃もこぶしも、春を待ってましたとばかり、そろって一度に咲くからおもしろい。春先の道路は汚い。すべてを白く覆い隠していた雪が消えると、雪に埋もれていたごみ、除雪車で削られたガードレール、タイヤチェーンで穴ぼこだらけの道が現れる。春一番の風は土ぼこりを巻き上げる。



桜が終わると白いりんごの花が一面に咲く。紅玉、国光、ふじ、陸奥、つがる、スターキング、ゴールデンデリシャス、世界一・・・青森駅前には、シーズンになると、ずらりとりんごの出店がならび、いやがうえにもりんごの種類を覚えてしまう。

夏はねぶた。8月はじめの本番に向けて、何ヶ月も前からねぶた小屋では張り子のねぶた作りが始まる。近くで見るとなんと大きな武者姿の張り子。いずれもへしゃげたような姿になるのは、なぜかと不思議に思っていましたが、実際の運行をみると、納得。大きな通りを運行するのですが、とことどころに歩道橋があり、その下をくぐらなければならないので、高さが自ずから制限を受けるためで、ちょっぴりわりきれないものを感じたことです。時期がちかづくと、まちのあちこちで祭りの笛の練習の音が聞こえてきて、だんだんムードが盛り上がってきます。わが下宿人の1人もその笛吹役がいて、部屋で一生懸命練習しているのが聞こえてきて、早々と祭りモードになります。踊り子は男性も女装で、花笠にすそをからげての浴衣姿ですが、ピンクの腰巻きに毛ずねにょっきりでちょっぴり色っぽいというかキモイというか。「ラッセラー、ラッセラー」とかけ声をかけながら、片足ずつぴょんぴょん飛び跳ねる。踊りと言うほどの組織的なものではなく、それぞれ思うに任せてぴょんぴょん。したがって、踊り子は「はねと」と呼ばれる。腰にぶらさげた「ががすこ」は金属製の皿で、通りのあちこちで、お酒が振る舞われ、入れてもらっては飲んで跳ねる。酒が入るものだからすぐに疲れて、だらだら歩く。観光客から「はねとがまじめに跳ねない」とよく言われるそうですが、どうも「はねと」側からすると、「こんなのただながめるものじゃないよ、いっしょに跳ねようよ」というのが正直な気持ち。跳ねてみると、この祭りはやっぱり見るよりは跳ねることで喜びが得られるものだと実感しますし、まさに「踊るあほうに見るあほう、おなじあほなら踊らにゃ損々」の世界で、阿波踊りもよさこいもしかり、およそ祭りは見るより参加するのでなければ本当の満足は得られないものだと達観して、自分らが楽しんでいるんだからええじゃないかと、ぴょんぴょん「ラッセラー、ラッセラー」だらだら。ねぶたが終わると文字通り、青森の夏は終わり。急に朝晩も涼しくなって、気持ちの上でも秋が来るのが不思議です。

さて、仕事はというと、県庁の地方課に配属され、市町村の行財政指導をする立場。3ヶ月前までは学生だった全くの新米なのに、自治省から来ているのだから、地方自治法の権威者だというような目でみられ、扱われ、着任直後に県内のある村会議員研修で、「地方自治法」をテーマに講師をやるように上司から指示が出された。そんな調子ですので、毎日下宿に帰ってくると夜遅くまで、地方自治法、地方財政法、地方交付税制度、地方債制度、地方公務員制度など幅広く参考書を読破していきました。この時期にこんなに勉強したことが後々ずいぶん役に立ったと思います。そんな努力の結果、着任3ヶ月で、市町村から問い合わせがあってもまあ大抵のことは答えられるようになりました。

しかし、問題は、言葉。県庁職員は、ほとんど標準語で対話をしてもらえますが、市町村職員はそうはいかない。特に電話は容赦ない。最初は、電話をとっても3分の1は意味がわからない、言葉が聞き取れない。すぐ隣の人に代わってもらう日が続き、電話に出るのがおっくうになりました。この体験から、「言葉はその土地の気候風土を反映する。言葉の違いは県民性、地域性の違い。」という法則を発見しました。寒い冬の長い津軽では、唇をあまり動かさないで発音する。ことばも多くを語らず、省略形。「どさ」(どこさ行くだ?)、「ゆさ」(お風呂さ行くだ)のやりとり、「わ」(わたし)、「な」(あなた)、「け」(食べなさい)、「め」(うまい)で代表される。津軽らしい言葉が「まいね」。「だめ」という意味だが、高知弁の「いかん!」とは言葉の印象が全然違う。高知弁は「いい」というのも、「えい!」と語尾にアクセントがある。いいも悪いもはっきりしている。津軽の人々の奥ゆかしさとは違う。

昭和40年代半ばといえば、空前のボーリングブームで、誘われて生まれて初めてボーリングというものをやったところ、無心の素人はこわいもので、なんと158というスコアが出てしまいました。みんなにびっくりされ、「すごいっ、天才だ」というどよめきで、「えーっ、そうなのか、うん、ひょっとして、もしか、そうかも」と例によってお調子に乗ってしまい、それからというもの、毎日、出勤前の早朝ボーリング、退庁後のパチンコの稼ぎをボーリング券に換えてまたボーリング。土曜の午後は1人で1シート(確か15ゲーム)を投げる。マイボール、マイシューズをそろえる。忘れもしない、青森市内のあるボーリング場の「カゴメケチャップトーナメント」とかいう一般参加の大会に初出場して、「195,202,226」という今でも覚えているハイスコアが出て、4ゲーム目に入ったとき、ざわざわと回りがうるさくなってきた。どうも、「すごい点を出しているやつがいる、きっと優勝だべ、みんなで応援するべ」というようなささやきが聞こえてきた。とたんに、「ひょっと優勝かもしれない。みんなが見ている。もっとかっこよく、いい点をださねばなんねべ」と緊張は極致に達し、頭の中は真っ白。右足と左足のどっちを先に出すのかもわからなくなって・・結局最終ゲームは、145。みんな「あーあ、もったいない」というため息。久しぶりに、大学時代のあの体操競技で3.5を出したときのような緊張感を味わいました。それでも、結局わずかの差で逃げ切り、見事に優勝しました。ボーリングに関しては、その後東京に戻ってからもしばらくブームの間は入れ込んでしまい、後楽園ボーリング場での「サタディカップトーナメント」でも優勝するなど輝かしい時代がありました。今はそんな実力はありませんが、きらいではありませんので、市長時代に高知市長杯ボーリング大会を設けたことが認められてか、現在高知県ボーリング連盟の会長を仰せつかっています。

春は山菜採り、夏はねぶた、秋はキノコ採り、冬はスキー、暇があればボーリング、パチンコ。そういえばゴルフも青森で始めたもので、1日中やっても400円というパブリックゴルフ場があり、少し草ボウボウで、フェアウエイもボコボコでしたが、初心者としては結構楽しめたと思います。出発点が自己流見よう見まねだったせいか、未だに当時とあまり進歩していないのがザンネン!

独身時代を思いっきり謳歌しようと、何でも挑戦した2年間でしたが、そのうちのひとつが、茶道でした。たまたま男性の友人のひとりが茶道を習っていて、弟子仲間に若い女性が多いと聞いて、若い者ですから、とたんに興味を持ってしまいました。不純な動機が入門のきっかけでしたが、始めて見るとこれがなかなか楽しいひとときでした。冬、外はしんしんと雪が降る。部屋の中では、釜の湯がシュンシュン。シャッシャッとお茶をたてる茶筅の音。濃い緑のお茶を飲み干す音「ズルッ」。なつかしい情景です。茶杓作りもやりました。すでに先が曲がっている竹を削ってオリジナルに形を整えるものですが、削りそろえているうちにとうとう耳かきのように細くなってしまったのを覚えています。

綴れば尽きることのない青春の青森でした。

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15.Local autonomy?(自治大学校の頃)
2年足らずの短い間でしたが、青森での沢山の楽しい思い出を胸に、昭和46年後ろ髪を引かれる思いで東京に戻ることになりました。自治省での配属先は自治大学校。一般には聞き慣れないと思いますが、地方公務員の研修機関です。当時は、都道府県庁、市町村の職員の研修を担当する機関でしたが、その後市町村職員の研修機関としては、「市町村アカデミー」という別組織ができました。私に与えられた主たる担当業務は、「エロパ地方行政研修」。「エロパ?」という初めて聞くあやしげな響きの言葉はなんじゃろか。実は、正確には、「EROPA」で、「Eastern Regional Organization for Public Administration」(行政に関するアジア・太平洋地域機関)という国際機関の「地方行政センター」がこの自治大学校に併設されており、同じ施設を使って毎年3ヶ月間のアジア各国の地方行政職員の国際研修を行っているものです。津軽弁の世界からいきなり英語の世界に連れ込まれ、そのカルチュアショックは筆舌に尽くしがたいものがありました。ひょっとして自治省入省直後の3ヶ月間の英会話研修をまじめにやりすぎたものですから、「松尾は英語ができる」と人事当局に誤解されてしまったのか。

ともかく、着任早々その年度の外国人研修生の受け入れ準備に大わらわです。3ヶ月間の研修カリキュラムを組むことから始まり、その各講座の講師依頼が大変。いずれも通訳を介すと時間がもったいないので、英語の堪能な講師を選ばなければならない。海外留学経験か在外勤務経験のある人が中心となる。講座を聴いてみて、何人かは、人選失敗を反省する講師もないと言えばうそになる。研修期間中のお世話役は私の役割。いろいろな注意事項を英語で文章にまとめる。研修旅行の世話も大変。行き先との交渉、途中の引率。研修生は13名。35歳未満という年齢制限があるが、どうみても50歳を超えている年齢詐称らしい人もいましたが、そこは当時はおおらか。ただ、旅行に行くとすぐ疲れて文句を言うのはその詐称組で、すぐばれる。

いよいよ研修生の受け入れ。入校式の司会、オリエンテーションは、私の役目。もちろん流ちょうな(?)美しい(?)発音の英語です。このときの晴れの活躍が、当時の校長にほめられ、その後の出世(?)に大いにはずみになったと感じています。なんでも一生懸命やることだと、また人間ほめられるとすごく気持ちよくやる気満々になるもんだと身をもって納得したものです。

研修生は、イラン、エジプト、マレーシア、カンボジア、インドネシア、韓国、スリランカ、ベトナム、ネパールなどからの地方行政職員ですが、日本と違って官選知事とか、地方担当の政府高官らしい人もいて、結構気位が高く、扱いが難しそうというのが第一印象でした。

現に研修旅行で仙台に行ったときだったと思います。ある立派なホテルに宿泊したのですが、朝食が当時はやりのバイキング方式で、たいていの人は自分の好みで選べることを喜んでいただいたのですが、エジプトの高官らしいちょっとサダト大統領に似た(まさか本物?)立派なおひげのある研修生が、食事のあとで、「わしにセルフサービスで飯を食わせた、けしからん」とぷんぷん苦情を言ってきたのを覚えています。そういえば食事は宗教の関係で、豚肉がだめ、牛肉がだめという人が多く、旅先ではホテルに「肉は、チキンで」と伝えることが大切でした。それでも、あるホテルで、コンソメスープに、小さくきざんだハムらしいかけらが2〜3入っていたものですから、研修生に呼ばれて「これはなんだ?ひょっとして豚ではないか」と厳しく詰問され、「さあ、なんでしょう。ムニャムニャ・・」とお茶を濁しているうち、つっかえされて拒否されてしまったこともありました。イスラムの方も何人かいて、アルコール類はだめでしたが、ある研修生は陰ではこっそり飲んでいて、「いいのか?」と聞くと、「人前でなければいいのだ」と答えたのを覚えています。結局その人の宗教に対する敬虔さの度合いによって違いがあるように感じました。(これらの研修生とのやりとりは、もちろん英語ですが、ここではわかりやすくするために、日本語訳で表現しているのです。念のため。そうなんです、当時はちゃんとしゃべれたんです。)

もう30年以上も前のことですが、記憶力旺盛な頃だったからでしょうか、昨日のことのようにいろいろ思い出してきました。カンボジアの研修生はいかにもエリート官僚という感じの人でしたが、内戦の絶えない国でしたから、ポルポト政権下で、いったいあの人はどうなったのだろうかとその後の消息もわからず心配です。イランの研修生は、確かイランシャール州の知事で、ちょっとわがままだけどほんとに人のいいおぼっちゃまという感じでした。マレーシアの研修生は、英語ペラペラ。さすが元英国領の国は違うなあと感じました。積極的な人で、よく質問をされましたが、こちらの英語力の未熟さに加えてマレーなまりのきつい英語のせいで、よく聞き取れずで何度も聞き返してそれでも結局よくわからず、気まずい思いをされたこともありました。インドネシアの研修生は、おじいさんという感じの35歳でしたが、勉強はまじめで、毎日夜遅くまで残ってその日学んだことなど報告のためのタイプ打ち(当時はパソコンとかメールとかがないもんで)にがんばっていました。韓国の研修生は、日本人とあまり変わらない。性格もやさしく、日本語もしゃべる。なんと英語の発音が我らの駆使するなつかしい「ジャパニーズイングリッシュ」で、日本語なまりがあるからおもしろい。きっと韓国語と日本語は共通のなまりを持っているんだと言語学上の新しい発見をしました。ベトナムの研修生は、日本人と全く変わらない顔をしていました。日本の田舎のどこにでもいるような背の低いちょっと小太りのおんちゃんで、人種的に共通のものを感じました。ネパールの研修生はネール首相のような風格で、例の帽子をかぶっていて、研修終了のお別れ会の時、その帽子を私にいただきました。今も大事にどこかにとってあります。スリランカの研修生は、肌の色が黒く光っており、少し汗っかきなところを本人は気にしていたみたいで、握手があまり好きではなかったように思いました。みんなそれぞれの国に帰って、きっと活躍したと思います。なつかしい研修生にもう一度会える機会がほしい。

そんな研修生の1人から、ある時、「Local Autonomy?」(地方自治?)、「自治省も自治大学校も国の機関でありながら、地方自治を所管するというのは自己矛盾ではないのか?」と鋭い質問を受けたことがありました。確かに、このあたりが、日本の地方自治が自然発生的な下からの自治ではなく、国から与えられ、国の庇護と規制のもとに枠にはめられた自治である現状を見抜かれた思いでした。まさに、「日本に地方自治というものは存在するのか?」と皮肉っぽく問われたような赤面の至りでした。「自治大学校」は「Local Autonomy College」と英訳しながら、「自治」という言葉の使い方に内在する矛盾を指摘されるのを避けるためか、はたまた旧内務省への未練か、当時「自治省」の英訳については、「外務省」が「Ministry of Foreign Affairs」と英訳されていたのに対し、「Ministry of Home Affairs」と公式英訳されており、「内務省」という表現を使っていたのがおもしろい。それも、自治省が平成12年の省庁再編で総務省と改称され、今となってはなつかしい昔話です。

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16.路面電車さんごめん(公営企業第一課の頃)
昭和47年からは、いよいよ本省財政局公営企業第一課に配属されました。地方公共団体の経営する公営企業のうち、私の本来の担当は電気事業で、公営の水力発電事業のことですが、その経営指導や、企業債を起こす許可事務などを行っていました。通常電力会社への売電契約を結んでいますので、まず経営赤字になるということはなく、きわめて健全な事業で、多目的ダムの建設で地元がもめて事業が遅れるのをやきもきするくらいで、私の立場で印象に残るほどの難しい問題はなかったと思います。

それよりも当時の大仕事は、大赤字で破綻状態の公営交通事業(路面電車、バス、地下鉄など)の再建問題で、その立て直しのため財政措置を含む経営の抜本的改善計画の策定・実施を主な内容とする「地方公営交通事業の経営の健全化の促進に関する法律」を作ることでした。既存の法律の改正作業はよくあることですが、新たな単独の法律を作ることはそれほど多くはなく、その貴重な機会に担当することになったことは幸運というものでしょう。

当時の課長補佐の指示、指導のもとゼロからの法案作りです。内容的には、大赤字の公営交通事業について、累積赤字から生じた不良債務を棚上げして特別な地方債を発行して国の利子補給なども入れながら長期に償還するというもので、併せて新たな赤字が生じないように、経営の健全化(当時、合理化ということばに抵抗感を持たれるのを避けるために効率化とか健全化とかことばを慎重に置き換えるのに神経を使っていたと思います。)のための交通事業再建計画を立てさせ、給与の是正、人員の削減、収入増加策などを盛り込むこととするものでした。

前提となる健全化方策を大蔵省との間で詰めるかたわら法案の文章を作っていきます。全くの素人の私は、最初は課長補佐が書く法文案をマス目に埋めていく作業と文章的におかしいと思うこと、誤字などのチェックが主な仕事でした。文章は何度も何度も書き直されていくのですが、今と違ってワープロというものはなく、全部手書きで消しては書き消しては書く、訂正部分の切り貼りなど気の遠くなるような作業が夜を徹して行われました。文章表現を巡って課長補佐と言い合いになったりした覚えもあり、「もういいですよ。結局趣味の違いの問題ですから。」と、恐れも知らず上司に暴言を吐いてしまい、「君もなかなか言うなあ」と苦笑いされ、ずっとそのことが気になったことがあります。

法案の原案を局長まで説明して、内閣法制局で審査を受けます。1字1句ことばの表現や、このことばはどこからどこまでかかるのか、内容に矛盾や脱落はないかなど法文としてのルールに当てはめて厳しくチェックされます。法律というのは、こんな厳密に文章が練られてできあがるものなんだと知り、法律のプロ集団の法制局の人たちに尊敬の念をいだいたとともに、年から年中こういう仕事をするのもしんどいことだなあとお気の毒にも思ったものです。

法案ができあがると、国会に上程するために、次官会議、閣議、国会対策委員会など各党幹部、関係国会議員の事前説明を次官、局長、審議官、課長、課長補佐など総動員で走り回ります。当時ヒラの担当にすぎない私は、そのための法案要約など説明用資料作り、説明随行などめまぐるしく働きました。国会の赤絨毯を大きな風呂敷(鞄よりも風呂敷の方が資料をすぐ出せる、軽いということで、大風呂敷を両手に走り回るのが官僚の象徴的な姿でした。)を抱えて、走り回りました。国会の中に入ると、衆議院と参議院とこんがらがったり、方向がわからなくなったり、携帯電話のない時代に公用車を手配するのに電話を探し歩いたり・・いい思い出です。

国会審議が始まる前に想定問答作りです。法律ができるとその逐条解説の本がすぐに出版されますが、この想定問答がそのまま原稿になるから、早いのです。審議が始まると、質問通告に従って答弁作りです。想定問答通りのものは、私が担当しますが、想定外の問いに対しては、課長補佐が原案を作って上司に見てもらいます。委員会審議の前夜に質問通告があり、大蔵省や関係各省にも協議をしたりで、夜遅くまで答弁作りです。翌朝の大臣説明に間に合わすべく答弁資料を必要部数整える作業で、終電に間に合わず泊まりになったり、遅くにタクシーで帰ったり、まさに 修羅場の毎日が続きます。こうして苦労してできあがった法律も、15年の再建期間を過ぎ、今は事実上失効してしまっているのが、寂しい。

ところで、当時、公営交通事業の赤字原因は、多くが路面電車を抱えていたということでした。昭和40年代後半は、高度成長まっただ中。道路はマイカーがあふれ、大混雑。その中で、路面電車に乗る人も年々減少し、おまけに自動車による道路渋滞で電車が定時に走れず、ますます客が減る。結局赤字の要因であり、道路混雑の要因にもなって、「路面電車こそ諸悪の根源」と位置づけられ、路面電車の廃止指導を強力に行うのが、当時の私の課せられた仕事でもありました。路面電車をバス、地下鉄、新交通システム(モノレールなど)に転換することが大きなテーマでした。京都、札幌、福岡などの路面電車廃止、地下鉄建設には私も深く関わったといえましょう。

地下鉄はいいにしても、今や世界的に環境にやさしい公共交通機関として復活、充実の動きがあるくらいの「路面電車」を廃止に追いやってしまった私の一端の責任に、「世の中も変われば変わるものだなあ」と、なつかしくも申し訳なくも、感じ入るこのごろです。

高知の路面電車は幸い、公営ではなく民営であったためか、この私の強力な廃止指導の網にかからず今も残され、残っている中では、全国でも最も古い歴史を持つ路面電車として観光資源にもなっています。行き先表示にわざとらしく大きく「ごめん」(終点の南国市御免駅)と書いてある電車に会うたびに、「路面電車さん、ごめん」と心でつぶやいているのです。

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17.出会い、そして…(真理子との結婚)
26歳。そろそろ適齢期という頃。実家の方からはお見合いの話がいくつかくるようになりました。高校時代を含め、家庭というものから離れて一人暮らしをするようになって10年を過ぎるとさすがに「独身疲れ」「家庭願望」というのでしょうか、部屋に帰っても「お帰りなさい」と言ってくれる人がいない、「ご飯にしますか、お風呂にしますか」と言ってくれる人もいない、ちょっと疲れたからといって肩をもんでくれる人もいないという、うるおいと対話のない生活が少し寂しく感じてきていたように思います。

そんなところから、「結婚したい」「家庭を持ちたい」という気持ちが高ぶっていましたので、いいお話があれば喜んでという感じになっていました。私の体験からしても、やはり男性にも結婚適齢期があり、気持ちの高ぶりのある頃の結婚が一番幸せにつながるかなあと実感しており、若い男性をみると、適齢期の時にいい人をみつけなさいよと薦めています。また、入省後5年目に県庁との人事交流があり、課長クラスに配置されるというのが、当時の自治省の人事方針でしたので、それでなくても年が若いのに、ましてや独身というのではいかにも地方の方には失礼ではないかという私自身の変な見栄があって、なんとしても結婚して地方赴任したいという願望もありました。

ちょうど実家の方から、母の知り合いで、地元の高校の先生の奥様から東京の親戚にいいお嬢様がいるので会ってみないかという話がきました。スナップ写真が送られてきたのをみると、ちょっとボーイッシュなキュートな感じの私好みのタイプの女性でした。スタイルも近代的。雰囲気としては八千草薫といった面長、日本的な美人。ということで、写真での第一印象は極めてグー。よっしゃがんばるぞと、燃えてきました。

東京の練馬区のご自宅を1人で訪ねて行けという実家からの指示に従い、いざ練馬へ単身乗り込んでいきました。考えてみると、結構勇気があったもんですねえ。大泉学園の閑静な住宅街、お父様は大学の大先輩、お母様は若い頃、「ミス・・」だったとか。本人は、写真以上にかわいらしく、そそとして奥ゆかしく、知的。弟2人もかっこいい都会の子。こりゃ申し分ない、すぐにでも「結婚しましょう!」と言いたいところでしたが、そんなにがつがつするのもみっともない、それより、こちらの方を気に入っていただけるのだろうか、急にその方が心配になってきました。(結婚後の妻の話ですが、その時届けられていた私の写真は、ソファに足を組んで座っている写真だったそうで、第一印象は「なんか、かっこつけてるわねえ、東大出だからって偉そうにしてるのかしら、ちょっとねえ・・」というぐあいで、必ずしもグーではなかったとか。あぶないあぶない。)

昭和47年12月10日。この日こそ、妻・真理子との初めての運命の出会いの日です。国の役人として平穏な生活を予想していたでしょうに、ある日波瀾万丈の生活に一変しようとは、当時はお互い思いもしなかったことです。いずれにしてもこの12月10日は2人にとって忘れることのできない運命の始まった日なのです。たまたまこの日「12/10」を「テン・ツー・トウ」とこじつけて読めるものですから、政治家になってからは「テツト」デイとして、毎年この日を後援会の集会を開く日と設定することとしました。

2人のデートは、ちょうど例の公営交通事業の経営健全化法案の作業の時期と重なり、忙しい合間を縫っての楽しみなひとときでした。小石川の東大の植物園に行ったり、映画、美術館、銀ブラ、お得意のボーリングでええかっこしたり、今思い出しても思わず口元がゆるむ青春の日々でした。

大手町にある富士銀行本店に勤めていた彼女とは、こちらが霞ヶ関で、同じ地下鉄丸の内線沿線とあって、デイトの待ち合わせによく地下鉄の駅を使うことがありましたが、ある時、仕事が早く終わることを見越して夕方の待ち合わせ時間を約束していたのですが、でかける直前になって急に仕事が入ってきてその時間に間に合わなくなってしまいました。当時は携帯電話という便利なものもなく、約束の場所にはこちらからは連絡のとりようもなく、どうしょうどうしょうと焦りつつ、夜も更けてやっと仕事を切り上げ、「もういないだろうなあ、すっぽかされてカンカンに怒って帰っただろうなあ、これで破談やろなあ」とあきらめながらも、ひょっとして・・とおそるおそる待ち合わせ場所に行ったところ、なんと約束時間から2時間以上も遅れてしまったのに、彼女がひとりポツンと駅のベンチに座って不安げに待っているじゃないですか。それもプリプリ怒るわけでもなく、にっこり笑顔で迎えてくれて「よかった、もう来ないかと思ってた。お仕事忙しかったの?、待っててよかったわ。」ときた。鬼の形相でいきなりビンタがきてもしかたないくらいのことなのに、なんという人だ。もう、すっごい感激!ぎゅっと抱きしめてブチブチっとキッスでもしたかったけど、人目があるので、そこは高ぶる気持ちをぐっとおさえましたが、気持ちの上では「この人はすごいっ。この人とだったらきっとすばらしい家庭ができるぞ。こんな人に出会えてよかった。よっし、一生大切にするぞ〜。」と、感動で胸ふるわせたものでした。

かくして、喜びも悲しみも分かちあう波瀾万丈の二人三脚の生活が始まったのでした。

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18.革新県政の憂(滋賀県の頃)
結婚してまもなく、滋賀県庁への赴任を命ぜられました。妻は出産が間近ということで、3ヶ月間はやむをえず単身赴任となりました。

県庁での仕事はというと、地方課の参事ということで、課長クラスですが、3人の参事が滋賀県を3つのエリアに分けてそれぞれエリア内の市町村を管轄し、市町村行財政の指導・助言・支援をする統括責任者の役割でした。私は、高島郡という琵琶湖の北西部の比較的農村地帯を担当することとなりました。しかし、ちょうど湖西線という京都と北陸を結ぶ新線が開通することとなり、その沿線地域として京阪神のベッドタウンとしての発展が期待されている地域でした。

それぞれの管轄市町村回りをしたり、忙しいこともありますが、スタッフ職特有の組織内で浮いた存在で、「参事とは惨事やねえ、三人参事でサンザンなことよね」と、ぼやく参事さんもいました。

その年、劇的な知事選挙が行われ、自治省の先輩で滋賀県八日市市長をしていた武村正義さん(後の大蔵大臣、魁党首)が敢然と当時の野崎県政を批判して革新勢力を地盤に立候補したから大変。県庁内は、少なくとも幹部は長く県政を担当していた現職野崎知事一色。県政の建設業界との黒い疑惑も取りざたされ、激しい選挙戦となりました。私は、何となく武村さんが自治省の先輩ということもあり、県庁内では白い目でみられがちだったのが、思い出しても居心地のよくない選挙でした。

結局、武村新知事が誕生し、基本的に保守地盤であるはずの滋賀県政としては初めて革新県政となったのです。幹部は総入れ替えになるのではないかと憶測を呼び、県庁内はひっくり返ったような大騒動。

ちょうどオイルショックで県財政は窮乏を極め、県政全体の大改革が新知事の下で断行されることとなりました。その核となったのが、新設の「行財政調査室」。なにやら特高警察のようなあやしげな響きのある組織名でしたが、なんとその室長に私が任命されてしまったのです。さて、何から手を付ければいいのやら、と数名のスタッフと共に思案したものです。やっぱり組織を作った武村新知事の意向を確かめるのが先決ではないかと思い、知事のところにおしかけ、「何をやりましょうか」とお伺いをたてたのですが、「それは君が考えることだ」と一蹴されたのにはびっくり。まだ28歳の青臭い松尾室長さんはこのことばにショック。「それはないでしょ」と言いたいところでしたが、こういう場合は、自分なりに「今までの県政にはこれこれの問題があります。これからの時代を見据えて、私はこれらの課題をこんな方向で解決するように取り組みたいと思いますが、知事のご意見をいただければありがたいですが。」という感じで、自分なりの課題意識と方向性を案として提示した上で上司の意見を伺うのが役人のあるべき姿かと教訓を得たものです。

武村知事は当時確かちょうど40歳で、全国最年少の知事。八日市市長は30代ということになります。学生時代ドイツにも留学の経験があり、90キロという体の大きさもともかく、発想、行動力、人脈、政治性あらゆる面で私には大きな刺激をいただきました。後に私自身が政治の道に足を踏み入れることになったのも、このときの経験が意識下にあったのかもしれません。

行財政調査室は、結局、今で言う行政改革、財政改革を全般にわたって計画し推進することとなり、事務事業の見直し、人件費の削減等経費の節減、収入の確保、職員の意識改革といったことを当時としては先進的に行うこととなりました。収入確保策の一つに新税構想があり、琵琶湖に主として県外からレジャーボートを持ってきて浮かべる人達に、油で琵琶湖を汚染するし、ゴミも捨てるというようなことで、その娯楽性に着目して「モーターボート税」をかけようということになり、「法定外普通税」の大臣許可をいただくべく当時の自治省の税務局と何度も協議を重ね、いいところまで行ったのですが、税収額に比べて捕捉のための徴税費用がばかにならず「労多くして・・」ということになり、しぶしぶあきらめたのが、今も悔しい気持ちです。しかし、そのおかげで、ずいぶん税制や税の考え方を学ぶことができ、その後自治省の税務局で税制改正の担当をすることとなった際に、この時の経験、知識がずいぶん役立ったと思います。

若い革新県政の武村知事の一挙手一頭足がマスコミにも注目されていたこともあり、調査室の先進性も注目され、NHKの全国ニュースで取り上げられたり、若い私も行財政改革の全国シンポジウムでパネラーとして発表したりというはなやかさでした。しかし、その一方で、庁内、議会対応では大変な苦労をしました。庁内的には、まだ反武村の旧体制勢力があり、立場上なにかにつけ、武村知事のお先棒を担いだ格好になった調査室に対しては冷たい視線が投げかけられ、やることなすこと、異論が出されたりいじめにあったりというつらい場面が少なくなかった1年でした。当時の調査室員は7名でしたが、20代の若い室長の下で本当に苦労をして支えていただき、申し訳なく、今でも感謝しています。

そんなこともあり、この組織はいつまでも存続させるべきではなく、短期集中でまとめあげて1年で解散しようと自分では決めていました。幸い行政組織の改革案も作る役割もいただいたことから、抜本的な組織改革案には、武村知事の強い意向で、文化行政を扱う組織の新設とともに、組織の大幅縮小を図ることとしましたが、併せて行財政調査室の廃止を盛り込んでしまいました。その組織案を見た武村知事の「んっ、これは?」と驚いた顔を今でも覚えています。その理由をいろいろ述べて納得いただき、晴れて解放されたと思ったら、今度は知事肝いりの新設の文化振興課長に「君の行くところがないぞ、これを君がやってくれ」と言われて、皮肉にもまた新設組織で白地に絵を描くような仕事をすることとなりました。

文化行政も、当時は草分け的存在でした。知事の意向としては知事部局に文化担当課を作りたかったようですが、芸術文化、生活文化とも文化振興行政は、それまでは全く育っておらず、実際の現場の担い手は社会教育主事という現実から、機能面を重視して、とりあえず、教育委員会事務局に文化振興課を新設するとともに、文化をより強調する意味で、文化関連の課(他に文化財保護課、社会教育課、青少年課)を集めて、文化部を作ることにしたものです。

文化振興課長席に座ったものの、はて何から手がけようかという状態でしたが、幸い優秀な若い職員が配置され、それほど悩むことなく、むしろ文化という面は実に楽しい分野だということを役得のように感じながら仕事をすることができました。「文化とは?」という議論をしたり、武村知事からはキャッチフレーズを投げかけられ、武村知事が八日市市長時代に、コンクリートのビルのようにマッチ箱のような建物が嫌いで、日本的な屋根が好きで、「屋根のある町」を推奨していたというヒントから、「行政に文化の屋根を」というすばらしいキャッチフレーズが誕生しました。まさに、「文化」とは行政の各分野がもつべき横断的な理念で、「文化的な行政」とは、「人間的な息吹を感じさせるセンスのある粋な行政」のことではないだろうかと、自分なりに納得し、これからの行政はそういう発想を持つべきだと庁内外に吹聴して歩いたものです。とかく、文化というと、芸術文化の枠にとらわれがちですが、もっと庶民に親しまれる生活全般にとけ込む土臭い文化を大切に育てていこうという発想もあったと思います。「文化人」と皮肉をこめていわれるような偏屈な変人と思われないよう、幅を広げ、より身近に感じられる文化行政をめざそうと苦心したものです。今で言う「スローライフ」でしょうかねえ。

よくわからない滋賀の文化を大いに議論しようということで、滋賀県出身の文化関係者に集まっていただき、知事を交えて何回か「湖と文化の懇話会」として、楽しい有意義な会を催しました。国立民族学博物館館長をされた梅棹忠夫さん、ワコールの塚本幸一さん、日本モンキーセンターの今西錦司さんなどがメンバーで、今から思うと若輩の私がこんなに恐れ多い方々と親しくおつきあいできたなんて幸せ者です。

財政厳しい時ではありましたが、知事肝いりとあって、文化行政に関してはほとんど新規予算要求もフリーパス。おもしろいように新しい仕事ができました。大きな仕事は、老朽化し手狭な県立図書館の改築でしたが、併せて、文化関連施設を一カ所に集合させた「文化ゾーン」を作ろうということになり、企画部と共に瀬田の山を活用して計画作りをしました。県立図書館は、市町村立とは機能を明確に分化し、レファレンスを中心に、図書館の図書館として純化しようということで、ほぼ理想的な全国のモデル的な図書館ができることになりました。文化ゾーンの名称を当世はやりの長い名で「湖の見える文化の丘」というのはどうかという提案をしましたが、関係者にセンスがなく(?)、ボツになったのを、未だに残念に思っています。当時、文化幹線計画というのがあり、県内を数カ所のブロックに分け、各ブロックに県立の文化芸術会館を造り、中央に文化ゾーンを配置し、相互の連携で文化の幹線を県下くまなく走らせようという構想でした。滋賀県は、京阪神のベッドタウンとして当時人口急増県で、名神高速道路沿線に新工場が続々張り付き、財政的にも自主財源の豊かな県でした。であるがゆえに、オイルショックの後でもこんな構想ができたのでしょう。そういえば、いろいろな事業を考えるとき、国の補助金はどうだろうかと考える必要を感じておらず、県単独事業として自由に考えればよかったという印象です。その後奉職することとなる高知県とはえらい違いです。

しかし、いいことばかりではありません。当時の県議会は、野党となった自民党の圧倒的な多数野党議会で、知事選のしこりかいろいろな議案が修正されたり、継続審議となったり、困難を極めていました。議案提出前に自民党の政調会などに説明に行くのが、県庁職員みんな憂鬱でした。密室の説明の場ですので、聞くに堪えない罵声が飛んだり、いじめとしか思えないいやがらせがあったり大変でした。自民党も野党になるとこんなことになるのかと失望したものです。後に、国政の場においても自民党が下野した時期があり、細川内閣のもと、たまたま政治改革を担当していた私は、この時と同じような体験を再度することとなったのは運命の巡り合わせというものでしょうか。

滋賀県は、県土面積の六分の一が琵琶湖。なにかにつけ、この琵琶湖と行政は関わっていました。近畿各県の水瓶として、下流県への水の確保への協力、水質保全と責任も大きなものがありました。歴史的にも常に都への通り道として登場する舞台。ただ、京都にあまりにも近接しており、県都大津からは、電車で10分。京都の陰に隠れて、京都府滋賀郡、京都市大津区と揶揄されるのが、当時の滋賀県の悩みでした。

しかし、そんな滋賀にも驚くことが起こりました。昭和50年代の始めでした。琵琶湖畔に突如として大デパートが出現したのです。西武デパートです。西武の堤社長は近江商人発祥の地滋賀県出身ということで、そのようなことができたのでしょうか。このデパートができるまでは、日曜になると買い物は、京都へ大阪へという流れでしたが、なんとデパートができてからは、逆に京都、大阪から滋賀へお客さんがどっと押しかけるようになったから驚きです。民間施設によって、人の流れ、経済の流れをこんなに変えることができるのかと民間の力の大きさを実感したことでした。

 結局、滋賀県には約4年間在職しましたが、その間、長女と長男が生まれました。長女が生まれたときは、なんとか出産に立ち会いたい一心で、里帰りしていた東京に行き、今か今かと待っていましたが、初産は遅れるもので、予定時間がずれ、次の日は滋賀の仕事がどうしても出なければならないということで、夜行列車の時間ぎりぎりまで待っていましたが、生まれず、しかたなく帰ることとしました。東京駅に着いてひょっとしてと思い、病院に電話をすると、ちょうど今生まれたという返事があり、思わず「ばんざーい」と、叫んだものです。奇しくも、妻の父親と同じ誕生日(6月13日)となったのが不思議です。本人も意識していたでしょうかねえ。嬉しくて嬉しくて、あちこち電話をかけまくった覚えがあります。長女の名は、やっぱり出生届を出した滋賀県にちなんで、りぐって、恵理子と名付けました。琵琶湖には「エリ漁」という独特の定置網漁がありますが、それが琵琶湖の風景としてシンボル的存在となっています。その音をとって、「えりこ」とし、妻真理子の一字をとって「恵理子」としたものです。3年後に生まれた長男は「大樹」ですが、「ひろき」と呼びます。私が青森県庁時代の上司の名が「光大」と書いて「みつひろ」と呼ぶ先輩で、「大」を「ひろ」と読むことをその時初めて知り、ただ大きいだけでなくひろがりがある感じが気に入り、そのことが頭にあったと思います。

古い公舎住まいでしたが、子供を囲んでの楽しい生活が始まりました。初めて、自家用車を中古で買い、休みになると、滋賀県内琵琶湖周辺をぐるぐるくまなく、そして京都や親戚のある奈良、大阪まで足を伸ばして走り回りました。県内では、京都の陰に隠れてしまっていましたが、すばらしい庭を持った湖東三山の名寺、大池寺の小堀遠州の庭、渡岸寺の国宝十一面観音像など、うならせるように見事な日本文化を発見できました。信楽町の紫香楽の宮跡に行ったときには、千三百年近い昔の天平の当時の瓦の特徴である布目模様のかけらがごろごろと無造作にころがっているのにはびっくりでした。

今から思うと、仕事の憂はともかく、生活においては歴史をたどるロマンの旅を日常的にできたある意味で幸せな日々だったと思います。

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19.ナナサンマル(730)プロジェクト(沖縄開発庁の頃)
昭和52年、約4年間の滋賀県での悲喜こもごもの生活を終え、自治省に復帰して、すぐ総理府沖縄開発庁に出向し、振興局振興総務課専門官兼課長補佐という役を与えられました。首相官邸前の総理府の建物で仕事ができることに喜びと緊張感を覚えました。

沖縄開発庁は、昭和47年日本に復帰したばかりの沖縄県に対し、太平洋戦争において戦場となり多くの犠牲を払い焦土化した後も、戦後27年間米国統治下にあった苦難の歴史を踏まえ、「沖縄開発特別措置法」という特別法の下、沖縄の復興発展のため、国としての数々の特例的な支援(補助率100%という事業の存在を初めて知りました。)を行うための組織です。

そのため、開発庁には、ほとんど全省庁からそれぞれの専門職員が集められ配置されている総合官庁です。振興局にも総理府、大蔵、文部、厚生、農林、建設、運輸、自治の各府省から配属され、居ながらにして幅広く各省庁に大変な人脈ができ、その後の仕事にも大いに役立ったものです。

振興局長は大蔵、総理府の交代ポスト、振興総務課長は大蔵、補佐は大蔵と自治、係長は総理府、振興第1課長は建設、第2課長は農林、第3課長は運輸、第4課長は厚生という具合に、組み合わされている。この時の振興第一課専門官が建設省の人で同じ山口県出身、後に私が高知市長、彼が宇部市長となり、共に全国市長会の副会長としてコンビで仕事をすることになろうとは、この時には予想だにしなかったことです。その彼とは開発庁の仕事でも、「730(ナナサンマル)プロジェクト」で共に苦労し、力を合わせて成し遂げた盟友です。

私に与えられた大きな仕事がこのプロジェクト。「プロジェクトX」でいずれとりあげられるのではないかと期待しますが、それほどに知られざる数々の苦労と工夫とエピソードに富んだ事業でした。かいつまんで述べると、このプロジェクトこそ「沖縄の交通方法の変更」です。

「なにそれ?」と思われる方も少なくないと思います。要するに、沖縄は、戦後米国統治下では米国同様「車は右」の社会だったのですが、日本に復帰するに当たって、本土との一体感、交通安全の観点から、本土並み「車は左」に変更することとなり、昭和53年7月30日をもって、一挙に右・左を変える日とされ、変更をスムーズに成し遂げるためそれに向かってさまざまな対策が講じられることとなったのです。

どんなことがされたのか、例を挙げると、わかりやすいのがバス。乗降口が逆になってしまうため、国費で沖縄の全バスを取り替え。乗用車のヘッドライト(対向車にライトを直接当てないようにわずかに道路外側に向いている)も逆向きに取り替え。特に左右逆になると曲がりにくくなる狭い鋭角の交差点の改良。釣り道具屋さんや、ガソリンスタンドからは、沿道の車の流れが逆になると商売に大きな影響が出るとして、補償要求まで出てきました。

道路改良に伴い、大きな課題となったのは、「つぶれ地」。沖縄戦で文字通り沖縄は焼き尽くされ破壊され、戦後米軍が占領と復旧のために、焦土にブルドーザーを走らせてそれまでの区画に関わりなく道路を建設したそうで、当時の道路の敷地は買収もされず、民有地のまま道路になっている所が沢山ありました。民有地が道路でつぶされたという意味で「つぶれ地」と称していますが、戦後処理としてこの土地を買収せよというのが地元の地主の要求。結局国道は国が、幹線地方道は地方公共団体が、それぞれ買収することとなり、国がすべての財政措置をすることで、730プロジェクトを契機につぶれ地問題は解決の道筋がたてられたのです。

このほかにも、沖縄には鉄道がないということで、代わるものとして高速道路の建設、モノレールの建設。山が低く川が短いところから慢性的な水不足対策として、珊瑚礁の空洞の多い石灰岩質の島であることを利用しての宮古島の地下ダム建設、本島北部のダム建設。本土との果実移出を妨げていたウリミバエ、ミカンコミバエ絶滅作戦、不発弾処理対策、効率の悪いサトウキビからの砂糖精製支援、ハブ対策、首里城再建対策など珍しい数々の事業に関わることができ、大変勉強になりました。その後、沖縄を訪れるたびにこうした事業が次々と完成し機能を発揮し、目を見張るように発展を続ける姿を見て、なつかしく感慨深く当時を思い起こしています。出張も沖縄だけということで、何度となく訪沖し、有人離島のほとんどを訪れ、沖縄の人々の暮らしと考え方を体で感じ取ったつもりです。

沖縄は、つらい悲しい歴史を持っています。1609年(慶長14年)薩摩藩の琉球侵攻、「琉球処分」といわれる1872年(明治5年)琉球藩設置から1879年(明治12年)の廃藩置県による沖縄県設置という、琉球王国の強引な日本併合、そして、太平洋戦争沖縄戦における本土防衛の最前線基地化、戦後の米国統治、現在に至る駐留米軍基地の島。

沖縄では「ヤマトンチュウ」(本土の人)、「ウチナンチュウ」(沖縄の人)と使い分けされるように、沖縄の人々の心の奥には、常にこの歴史が宿っており、時に怨念のようになって沖縄の諸問題についての主張を支えることとなり、こうした意識の差が問題解決を困難にしている面があることを感じます。中国、朝鮮の問題も沖縄の問題も、「歴史を直視し、過ちの歴史から学ぶ」ことなしには解決し得ない、と2年間の沖縄開発庁勤務で痛感したことです。

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20.地方税と国税の戦い(税務局企画課の頃)
昭和54年久しぶりに自治本省に戻り、税務局企画課課長補佐となりました。税務局は、採用当時3ヶ月の研修期間に市町村税課に配属されていましたが、それ以来でした。企画課で、私の主な担当は、自民党税制調査会、地方税法改正、地方税法総則指導、地方財政計画税収見積もり、国際租税といったところでした。

税制改正は、毎年、年末の予算編成作業の前段階に、次の年度の財源を決めるために、必ず行われるものです。税制改正は、すぐれて政治的な問題に関わっており、実質的には、政府与党の自民党税制調査会という自民党国会議員で構成する税の専門家集団である正副会長と各分野の利益代表であるいわゆる「族議員」の議論の場で決められていました。族議員の間で利害がぶつかり合うことも多く、議員間のケンケンがくがく激しい議論の応酬の場です。そこへ事務方の大蔵省主税局と自治省税務局の幹部が出席して、それぞれの立場を主張するものですから、声の大きい政治家はがんがん怒り狂う。それにひるまずいかに税制としての説得力ある筋論を展開し理解を求めるか、両省の課長、局長の手腕が問われるまさに修羅場です。族議員同士の議論、事務方との議論をじっと聞いて裁定を下すのが、正副会長。まさに、勝った負けたの戦いで、官僚、政治家の議論展開、発言姿勢、発言タイミングあらゆる面で、「すごいっ」とこちらまで興奮する場面。上司を尊敬するかだめのレッテルをはってしまうかの分かれ目。政治家の評価をする場ともなり、大変勉強になり、ある意味で楽しかった自民党税制調査会です。

われわれ課長補佐クラスは、まず発言の機会はなく、局長や課長の発言の事前の関連資料づくりと、当日いかにすばやく資料を見つけ出して上司の目の前に出すか、的確に耳打ち、メモ回しをするかという別の意味の修羅場です。両省とも立場は、税収の確保。立場上、減税要請や、政策的な租税特別措置の新設要請などは、徹底して反対する。通産省など企業減税を求める立場を代弁する族議員と激しく言い合う。

税制改正は、この自民党税制調査会と並行して政府税制調査会という税の学識経験者で構成される政府側の諮問機関でも議論されます。「でも」という表現は適切ではないかもしれませんが、現実には、党税調で政治的に決められていくのを政府税調が追認する形になるのが通例で、そうした現実が政府税調メンバーの方々の空しくやりきれない不満でもあったと思います。この政府税調は、大蔵省と自治省の共管ではありましたが、税制論議のほとんどが国税の問題であるという現実から、大蔵省が人選の主導権を握っていたといえましょう。しかし、国税の所得税、法人税と地方税の住民税は、同じ所得を課税客体としているため、その配分がよく問題になります。こうした地方税と国税の取り合いのような場面では、自治省人選の地方公共団体代表の委員と大蔵省OB委員との間の熾烈な論戦となりますが、所詮多勢に無勢、大蔵寄りの委員の数も声も大きく、結局国税側に押し切られてしまう場面が少なからずあり、悔しく空しい思いをしながら帰路に着くことがよくありました。

午前中に党税調、午後に政府税調と毎日のように重ねて税調が開かれますが、午前中は、党税調の激しいヤジも飛ぶような喧噪な雰囲気でこちらまで興奮してしまう一方、午後は、政府税調の静かに理論的に論議が深められるアカデミックな雰囲気の場に移るという税制改正の表と裏というか理論と政治というか理想と現実というか世の中の2面制を見る思いでした。

税制改正内容が固まるとこんどは、それを法文化して地方税法改正案を作る作業です。原案の法文を作った後は、内閣法制局通い。寒風吹きすさぶ中、大きな風呂敷に資料を沢山入れて霞ヶ関界隈をうろうろする例の霞ヶ関ドブネズミになってしまいました。法制局では、担当参事官に改正内容を細かく説明し、法文としていろいろな角度から改正内容が的確に表現されているか、抜け穴はないか、他の条項と矛盾はないかなど夜遅くまで議論が続きます。法案になった後も国会提出の手続きは大変、関係各省協議、事務次官会議、閣議、法案印刷、各党関係議員法案説明などなど。その間に想定問答つくり、国会審議が始まれば、質問採り、答弁作成。可決されれば、関係議員お礼挨拶回り。政令、省令、通達作り。都道府県総務部長会議、税務担当課長会議。こんなことをこなしてきたあの頃をなつかしく思い出します。

地方財政計画は、地方団体全体の予算のようなもので、次の年度の地方財源を決める重要な計画ですが、その地方税収の見積もりという大きな仕事を担当できたことは、幸せです。当時の自治省の立場は、地方公共団体がのびのびと仕事をしていただくために、できるだけ多くの地方財源を確保することでした。大蔵省は、国の財源確保のために国の歳出となる地方交付税交付金をできるだけ圧縮しようという立場。しくみとしては、地方全体の必要歳出を見積もり、そのための財源を確保しようというものですが、財源は国庫補助金や地方税総額が決まれば残りを地方交付税で埋めるという関係にありますので、地方税見積もりを小さくすればするほど地方交付税が大きくなるということになります。私の役割は、いかに地方税を小さく見積もるかということに手腕を発揮することにありました。大蔵省の地方税担当補佐との虚々実々のやりとりがなつかしい。狐と狸の化かし合い。

国際租税とは、税金の取り扱いについての国同士の租税条約の締結で、日本の企業が外国で企業活動をするときに、できるだけ税制面でも優遇されるように、互いの取り決めをすることです。法人税や住民税、固定資産税などは、一般に外国でも似た制度がありますが、事業税という税目については、課税客体が所得ではなく事業活動であり応能税ではなく応益税という特異な性格はなかなか理解していただけないもので、二重課税ではないかとよく交渉テーマにあげられていました。もちろん、交渉は、英語でやりとりします。その頃は私も英語力がある程度ありましたので、「事業税とは」というきまりきった説明はなんなくできたものですが、英語国でない国とも英語でやりとりしますので、エロパ国際研修担当時代に慣れていたとはいえ、それぞれの国のなまりがきつく、なかなか聞き取れず苦労しました。

フランスとの条約交渉で、私もフランスに行くことになりましたが、外国旅費の予算が少なく、自治省は私ひとりでフランスに乗り込むことになり、大蔵省の人は他の用務もあってパリに現地集合というはめになりました。行きも帰りもひとり旅。それまで、外国は、滋賀県庁時代に、姉妹交流していたアメリカ・ミシガン州にチャーター機で団体の一員としてついて行っただけでしたので、大あわて。イギリスの日本大使館に同期が行っていましたので、まずはロンドンへ直行。1日滞在していざパリへ。指定された宿は、1週間連泊だけあって、日本で言う「しもた屋」「はたご」「宿屋」ということばがあてはまるような、ロビーらしいものもない古いベッドだけという部屋の宿でした。ヨーロッパの建物は、何百年も同じものを使い内装だけリニューアルするという話を聞いたことがありますが、そんな感じで、ある意味では合理的といえます。

フランス語は、大学時代の第二外国語。よっしゃ試してやろう。とはりきっていたのですが、「郵便局はどこにあるか教えてください」という、実に簡単な言葉を得意(とその時まで思っていた)のフランス語で道行くフランス人を呼び止め、尋ねたところ、なんと通じない。いろいろ身振り手振り何回か繰り返してフランス語をしゃべってみたが、どうもだめ。それからというもの、とたんに自信喪失。とうとう、文章はあきらめ、「ボンジュール、メルシ、シルブプレ、オルブワール」などのあいさつ言葉しかしゃべれない普通の旅人に成り下がってしまったのです。

宿は、凱旋門のすぐそばで、「こりゃすごい、この際初めてのパリを大いに楽しもう」と思ったのですが、条約交渉というものは、実に厳しい日程で、午前中に交渉の打ち合わせ、午後交渉、もめると夜まで、その後本国への交渉経過報告電報の作成、交渉結果の反省・戦略会議と毎日夜遅くまで缶詰状態になってしまい、結局、凱旋門、シャンゼリゼ通りを交渉会場の往復で毎日通ったのと、途中のルーブル博物館に立ち寄ったくらいで、「せっかく1週間パリの凱旋門のそばに滞留したのに・・ブツブツ・・」ということになってしまいました。

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