| 1.名前の由来 | |
| 私の名前は、「松尾徹人」。姓はともかく、名の「徹人」は、かなり珍しく、これまで同じ「徹人」という名の人に会ったのはたったの一人だけ。それも高知の四国銀行のOBの方です。私よりは20歳くらい年上の方だったと思いますが、あるとき名刺を交換してお互いびっくりして顔を見合わせたことでした。 この名前は、私の父の苦心の作です。今年93歳になる父の話によれば、私が生まれた1947年(昭和22年)当時のアメリカ大統領の「トルーマン」を、「トオル」=「徹」、「マン」=「人」というふうにもじり翻訳して、「トルーマン」=「徹人」ということにしたそうです。当時の日本はアメリカの占領下でしたが、世界の覇者アメリカの大統領に負けない人間に育ってほしいという思いを込めてつけた名前とか。少し名前負けしているかなという感じですが、その由来を聞いて以来、私はこの名前に誇りを持ち、父の思いに近づくべく努力する決意でこれまでの人生を過ごしてきたつもりです。 ただ、「てつと」という読み方は、けっこう耳で聞き取りにくく、電話などでもよく聞き返されます。「えっ?てつこですか?」とか、「鉄塔?」「ペット?」と聞き返されると少しうんざりです。「徹人」を「てつと」と読んでくれる人も少なく、大抵は「てつんど」「てつひと」「てつじん」などのパターンが多い実態です。まあどれも悪くはないですけんど。 さらに、「徹」の漢字を、正確に書いてくれない人も少なくないのが悲劇です。「徹」は、「徹底」とか「貫徹」とか「徹夜」というように、やりとおすという意味でいいニュアンスなんですが、時たま「撤」の字でお手紙をいただく場合があります。「撤」は、「撤退」とか「撤回」とか後退イメージですので、全然好きではありません。そういう宛名でお手紙をいただくと、その差出人に、「この〜、めっ」としたくなります。 そんな特異な名前を持っているせいで、私は、人の名前というものは、固有名詞の中でも最も大切に正確に扱わないと、その人をいたく傷つけることになることを、身をもって知っているつもりです。 実は、私は実家では「とおる」と呼ばれています。というのも、父の言によれば、「徹人」をそのまま「てつと」と呼ぶか「とおる」と呼ばすか少し悩んだようです。「てつと」というのは、幼い子供の名前としてはいかにも可愛いくない。それに、近所に同じくらいの年頃の「てつお」君というのがいてどちらも「てっちゃん」と呼ばれてはややこしい。それじゃあ、「とおる」と読む方が「トルーマン」の音が反映されるし、可愛いし、「何でもとおる」方が縁起もよさそうだ。ということになって、「とおる」と呼ぶようになったそうです。その頃病床にあった父方の祖父にそのことを父が報告したら、祖父は、少し聞き間違ったか『そうか「とおす」か、ふーん、変な名前をつけたのお』と言われたそうです。 しかし、小学校、中学校と初めての人には、先生も含め、「徹人」を「とおる」と読んでくれる人は、まず皆無で、ちゃんと読んでくれません。そのことが、幼い心の中で、いつも名前を呼ばれるとき、「ちゃんと読んでくれるだろうか」とどきどきして嫌な気持になり、一種のストレスにもなっていたような気がします。そこで、中学を卒業して県外の高校に行くようになったきっかけに、親子相談のうえ、この際新しい土地で新しい友ばかりだから、読みやすい「てつと」と呼ばすようにしよう、ということになり、それ以降は外では「てつと」、実家では「とおる」と呼ばれる「2つの名前を持った人」になってしまっています。 といっても、一つ例外があります。後に青森県に赴任した際のことです。青森には、「三上(みかみ)」さんという姓の方が沢山いまして、私の所属した青森県庁地方課にも、当時なんと3人も三上さんがいました。そこで、みんなは、三上さんとは呼ばず、名の方で呼んでいました。その中に、「三上松男」さんという方がいて、みんなは「松男さん」と呼んでいました。そこへ、新人の私「松尾さん」がきたものだから、ややこしい。「まつおさん」ではこんがらがる、ということで、私の方も名で呼ぶことになり、つい私も「てつとさん」とはあまり呼ばれたこともなかったので、「とおるさん」と呼んでくださいとお願いしてしまいました。今もなつかしい青森に行くと当時の旧友は、みんな私のことを「とおるさん」と呼んでいます。 |
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| 2.伊藤博文のふるさと「光」 | |
| 「えーっ」と思われるかもしれません。なにをかくそう、そうなんです。私の生まれ育った所は、かの初代内閣総理大臣伊藤博文と同じ山口県光市なのです。と言えるようになったのも、ついこの前、平成16年10月4日をもって、伊藤博文の出生地束荷(つかり)のある旧大和町と私の出生地の旧光市が合併をして新光市が誕生したからなのです。「上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事」(船中八策」の坂本龍馬、その心を引き継ぐ民選議院設立建白書の板垣退助、国会開設後初の内閣総理大臣の伊藤博文と、なにか大きな歴史の流れの中に囲まれて、松尾徹人が生まれ育ち今に暮らしていることを誇らしく感じています。 光市という名称は、わがふるさとながら、なかなかいいですね。 昭和18年に、当時の光町と室積町が合併して市制施行されたものです。光町という名称の由来は定かではありませんが、私の育った光井地区には、昔、光る井戸があったという言い伝えを聞いたことがありますので、おそらくそのあたりが発祥かなと思います。千葉県の九十九里浜の中央にも光町という自治体があり、光市と交流をしているそうです。人口56,000人の小さな市ですが、「光輝け」を合い言葉にがんばっている市です。 光市は、戦前海軍工廠があり、人間魚雷「回天」の基地もあって、終戦前日の8月14日に大きな空襲を受け、七百名を超える犠牲者を出したというつらい歴史を持っています。空襲警報が出されて一旦は防空壕にかけこんでいましたが、警報が解除されて外に出たとたんに再度の空襲があったため、大きな犠牲者が出たということでした。工廠に勤めていた父から、私の幼い頃よくその時の惨状を聞かされ、そのたびに小さな胸が痛む思いでした。私は戦後昭和22年の生まれですが、私の小学生頃まではすぐ裏山に戦前の変電所跡があり、空襲で無惨に破壊されたままの建物や電柱が傾いたまま立っており、よく遊びに行っては両親に注意されたものです。 光工廠には、四国高知からも沢山の方々が徴用というのでしょうか動員され働いていたようで、高知に住んでいても、「私は光工廠で働いていました。あそこの海でよく泳ぎましたよ。青春のいろんな思いでのあるなつかしいところですよ。」とお声をかけて下さる方が何人もおられ、戦時体制のすごさに改めて驚いています。 工廠跡地は、武田薬品と新日鉄(当時は八幡製鉄)の工場が立地され、「周南工業整備特別地域」の指定地域として、重工業盛んなりし高度成長時代は、元気なまちの象徴だったと思います。私の実家はそれら工場のすぐそばで、朝晩は工場に勤める人たちの行列でおおにぎわいでした。それらの工場に就職するのが小さい私たちの憧れでもありました。当時の八幡製鉄光工場では、確か線材と呼ばれる鉄道の線路や鉄筋の類を製造していたと思います。小学生の時の工場見学の際に、大きな溶鉱炉からにょきにょき出てくる真っ赤に焼けた線材が印象的でした。 武田薬品光工場では、パンビタンとかアリナミンやワクチンなどを製造していたようで、中学校時代、授業中、風向きによってアリナミンのにおいがぷーんとにおってくることがありました。そんなこともあってか、卒業して何年か後に、私の中学校は、近くにあった高等学校と共に、山手の方に移転してしまいました。また中学時代の給食でときどきパンビタンというビタミン剤が、コロンと金属製の皿に、おかずとしてというか栄養補給として出されることがあったのを覚えています。社会全体が貧しい時代の、ある意味では未来食?だったかもしれません。後年、高知県の保健環境部長のときに、武田薬品製のワクチンの解説パンフレットの表紙に武田薬品光工場の航空写真が載っていて、よく見ると、なんと工場の近くにあるわが実家の屋根がばっちり写っているではありませんか。感激しながら、ひょっとして家の中にいる両親が写っていないかなあと透かしてみた覚えがあります。 光市は、風光明媚、特に白砂青松の虹ヶ浜、室積という海水浴場に恵まれたところで、県内各地から夏場には沢山の海水浴客が押し寄せます。私は広島の高校に入学しましたが、なんとこの学校は夏休み中、1週間の臨海学校として光市の室積海水浴場に行くのが伝統行事となっており、広島の学校に行ったのにふるさとの海で鍛えらることとなろうとは、不思議な巡り合わせです。ふるさとの海の美しさを誇りにも思ったことです。 通った小学校のすぐ近くに「冠天満宮」という菅原道真公を祭った天神様があります。道真公が九州太宰府に左遷される途中、光で休まれ、冠を置いたという石を祭っている伝説のある天神様です。学問の神様であり、小さい頃から今に至るまで毎年初詣を欠かしたことはありません。勉学の上では、きっと御利益があったものと信じています(しかし、どうも選挙の神様ではないかも)。この天神様のすぐ近くに中学校があったものですから、クラブ活動では、よく何百段もある石段を駆け上がらされたり兎跳びをやらされたという、今から思うとなつかしい思い出もあるところです。 光市の東端、室積には、象鼻ヶ岬という原生林の生い茂る俄眉山を擁すし、美しい御手洗湾(みたらいわん)を囲む岬があります。よく遊びに行き、海岸の石や岩にくっついている「ニナ」という巻き貝をとって帰り、母にゆでてもらって食べるのが楽しみでした。麓に普賢寺という普賢菩薩をご本尊とするお寺があり、毎年5月14日は「おふげんさま」と呼ぶ祭りがあります。ちょうどこの日が父の誕生日でもあり、毎年お参りをするというのがわが家の伝統行事でした。バナナのたたき売りや、よく買ってもらった「砂糖しょうが」など、なつかしい思い出です。 |
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| 3.家族のこと 頑固に元気な父 | |
私の父「新市」は、明治45年5月生まれの今どき珍しい「明治男」です。この年は大正元年でもありますが、明治天皇崩御(7月30日)の前に生まれましたので、明治生まれということになります。本年満93歳。老いてますます元気。戦前は光海軍工廠に勤めていましたが、戦後は事業を起こし、建築資材販売を業とする会社を経営しました。景気の影響を受けやすい零細企業ですので、時代の流れの中で、浮沈があり、苦労したようで、よく幼い私には「商売は大変。工廠時代が仕事もやりがいがあったし、生活も安定していて、一番よかった。仕事を選ぶなら公務員じゃよ。」と言っていたのが、耳に残り、私の就職の際には、こと改めて相談はしませんでしたが、父に道筋をつけられたように、ごく自然に公務員の道を選ぶことになったように思います。後に私が大学に行ってからは、「山口に帰って仕事をしようと思うなよ。地方に埋もれてしまってはいかん。」と私に言ったことばが、自分自身の人生に照らし合わし、子供の将来を見据えてのことばとして、私には、「よしっ、がんばるぞ!」という勇気を与えてくれたことを、感謝しています。父は、明治気質、なかなかの頑固者。母にも私たち子供にもよく雷が落ちてきた覚えがある怖い存在でした。じっと耐えていた母の姿が幼い私の目に焼き付いていました。今で言うDV(ドメスティック・バイオレンス)でしょうかねえ。その背景には、商売に対するいらだちもあったかもしれませんし、自分に対する自信のようなものも感じられました。 私が言うのもおかしいですが、げにまっこと頭のいい人で、数学的なことや物事に工夫を加えることなどは、「すごいっ」と思わす場面がよくあり、子供ながら尊敬していました。将棋は右に出るものがいないほどの腕前らしかったようです(母の言ですが、そう聞かされていたので、はじめっから私は将棋は覚えようとしなかったようです。)。 収集癖も相当なもので、自分ではあまり飲まないのに全国の酒のラベル収集はその分類の仕方といい、よくぞここまでと思わすものですし、戦前の新聞スクラップは、当時の世相が手に取るようにわかる貴重なものです。これらは、代々の松尾家の家宝として、保存しておきたいと思っています。93歳になろうかという今もクロスワードパズルが趣味のひとつになっており、数字のパズル雑誌など山のように積み上げてある。 そんな父を尊敬もしながら、そこまではやらないぞと、何となく家系的に根を詰める性格にささやかな抵抗感をいだきながら、できるだけアバウト人間になろうと、妙な努め方をしてきたのが、これまでの私のような気がします。 父は、頑固者の一面、愉快な人間です。冗談を言うのが好きで、つまらんダジャレや、ギャグなど、調子に乗ると実に楽しい人間になり、身振り手振りみんなを笑わすのが趣味のようなところがあって、多弁、駄弁。時々私自身もふっとそんな父の一面が身に付いているようなところがあり、「あー、こんなところは、父そっくりや、いやだねえ。」と我ながら苦笑することがあります。そんな父の自分のわんぱく少年時代の話の中で、自分の体験から和歌を詠んで、学校でほめられた話が印象に残っています。それは、「秋の日に 柿の木登りて さでこけて うんとうなりて そのままになり」。小学生にしてはなかなかの名歌で、私もこうした父の文才を引き継いでいるかと思うことがあります。 父は、最近は、加齢により、もともとよくなかった耳が全く遠くなり、本人は、わずらわしいのか補聴器もやりたがらず、声での対話はきわめて困難になっています。私たちも大声を出すのが面倒で、子供のおもちゃにある「せんせい」とかいう磁力で字を書いてはすぐ消す小型黒板のようなものを使って対話することになっています。こちらがその板に字を書いて筆談を始めると、しゃべればこちらには聞こえるのに、父まで板に字を書いて返事するのが、なんともおかしい風景です。 なぜぼけもせずこんなに元気なのか。私にもよくわかりませんが、父は若い頃は虚弱体質で、やせ型人間でしたので、健康にはずいぶん気を遣っていたように思います。お酒はからきし弱くほとんど飲みません(私はこういう体質を受け継いでいることを自覚しながら、無理をしないように努めていますので、ご協力をよろしくお願いします。)。しかし、養命酒をはじめ、黒酢、ロイヤルゼリー、朝鮮人参、ビタミン剤、など体によいとされるいろんなサプリメントを愛用しており、そのせいかもしれません。そんなところも私は受け継いでいるのがこわい。とにかく、ひざが少し痛いとはいいながらも、毎日犬の散歩にもでかけるし、健康チェックに定期的にお医者にもバスに乗ってでかけているらしい。 父は、生きる目標を常に持っているらしく、最初は喜寿(77歳)を目標にし、クリアすると、今度は米寿(88歳)、その次は白寿(99歳)、百歳とがんばっています。90歳の卒寿のとき、お祝いをしようとしましたが、断られました。「卒寿というのは、人生を卒業するみたいで、縁起がよくない。わしゃ、もっと生きる。」という理由でした。脱帽。 父には、人生のいろんな場面で相談すると、実に的確にアドバイスをもらえる。政治のこともなかなか詳しく読みが深い。私の過去5回の選挙情勢もどこで情報を仕入れるのか、的確に情勢分析もし、最近の2回については、ずばり負け予想をしていたのが悔しい。親のいうことを素直に聞かない「親譲りの頑固者」に育ってしまった自分が悲しい。 |
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| 4.家族のこと 苦労性で泣き虫の母 | |
母「喜志子」は、大正6年5月生まれ、本年満88歳になります。私と30年違いで、これはずっと変わらない(あたりまえ)ので、互いの年が覚えやすい。ちなみに私と私の長男大樹も30年違い。私の長女恵理子とその子「ことこ」(昨年生まれた私の初孫)も30年違い。なんのことはない。それぞれ親30歳の時の子供ということ。母は血液型はO型。辛抱強くて、明るくて、取り越し苦労の多い人です。 家業が店なもんで、よく夜遅くまでそろばんをはじいて帳簿をつけている夜なべ姿の母を覚えています。とにかく涙もろくて、喜んだり悲しんだり、感動したりすると、すぐぽろぽろ涙が出てくる泣き虫です。この性分は全く私が引き継いでしまっています。テレビの「みなしごハッチ」のアニメを見ては、鼻をシュンシュン言わせてくしゃくしゃになってしまうのが私です。テレビは家だから遠慮ありませんが、映画は感動場面になると、ほかのことを考えるようにして、涙をおさえなければならないので、苦しい。 母は信心深く、若い頃は教会に通い、私たち子供も日曜学校として教会に通っていました。いつの頃からか、母はお寺さんに通うようになり、お説教を聞いてきては、幼い私たちに受け売りの話しをしてくれていました。大抵が教訓めいた話が多く、「春風をもって人に接し、秋霜をもって自らを慎む」「実るほど頭を垂れる稲穂かな」など私の人生訓となっていることばは、母から伝えられいつのまにか頭の中に残り、バックボーンになってしまいました。母は未だに毎日読経を欠かすことなく、お線香の香りが母のイメージになってしまっているくらいです。親から子へ伝えること、そう考えたとき、確かに私は親から伝えてもらったものが沢山ある。では、私は自分の子らに何を伝えてきたのか伝わったのか、今振り返るとただ自省するのみ。 母は、とにかく心配性で、なにかにつけ物事を悲観的に考えてしまう人です。そんな性格はやはり私も受け継いでいるらしく、私もことあるごとに、思い悩みがちですが、ここでもそんな性格にささやかに抵抗して、できるだけ、楽観的に考えるようにし、どうにでもなれと割り切ってしまうことにより、気持を楽にすることも覚えるようになりました。人の性格は、自分自身を知ることで、自らの殻を打ち破ることも可能と感じています。 選挙の度に長々と電話をかけてきては、ブレーキをかけるのも、常に母です。こちらが風邪でもひこうものなら大変です。毎日のように大丈夫か大丈夫かと電話をよこしたり、手紙をよこしたり。ついうるさくなって、ガチャンと電話を切ったりすることがあったりします。その後で、きまって「ああやっぱり親心だなあ。せっかく心配してくれているのに、すげない切り方をしてしまって、しょぼくれてるだろうなあ」と後悔したり、反省したりの繰り返しです。 そのくせ母は底抜けに明るいところがあるのがおもしろい。愉快なしぐさで人を笑わしたり、おどけてみせることもよくあります。笑顔が素敵です。歌は自分でも音痴だと言いながらも、好きで、はずれていてもよく歌って聞かせてくれました。喧嘩をしながらも70年近く連れ添ってきた父とよく似た側面で、やっぱり似たもの夫婦だなと感じています。 母は昔からどちらかというと、病弱な方で、風邪で伏せっている枕元に父が作ったおかゆを運ぶのが私の役目だったような風景を覚えています。今も心臓も強くなく、風邪もひきやすく、しょっちゅう電話していないと心配な人です。しかし、盆や正月に子や孫、ひ孫が帰ってくるのが、なによりの楽しみで、日程が近づくと今か今かと電話がかかります。するなというのに、迎えの準備のために家中の大掃除をしては、疲れを出して、肝心の帰省時には、寝込んでしまっているなんていうことがよくあるのが、この人のどうしょうもない性分です。 自分があまり健康に自信がないせいか、私の耳には、「もう勉強は明日にして、早く寝なさいよ」ということばが焼き付いています。そんなに勉強をした覚えもないですが、「勉強しなさい」ということばは聞いた覚えがないのも確かです(言われなくても、どうも私はガリ勉タイプだったかもしれません。どうしてかって、だって、勉強がおもしろくてしかたなかったんだもん。このぉーっ。)。 |
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| 5.誕生日のこと | |
| 1月19日が徹人がこの世に生を受けた日です。両親は結婚して10年くらい子供ができず、悩んでいたようですが、やっと子宝を得たのが姉です。そして続けざまに年子でこの私が生まれました。 1月19日を誕生日とする有名人をインターネットで検索すると、あるデータベースでは、ジェームス・ワット(1736年)、エドガー・アラン・ポー(1809年)、ポール・セザンヌ(1839年)、水原茂(1909年)、丘みつ子(1948年)、松任谷由実(1954年)、白井貴子(1959年)、ウド鈴木(1970年)、宇多田ヒカル(1983年)など様々な人たちがいるのに、驚いています。なお、もっと驚いたのは、そのデータベースには、なんと松尾徹人(1947年)という人(本人)も載っているではありませんか。へえーまだ過去の人ではないんだ。でもきっともうすぐ抹消されるだろうねえ、とみています。かつて、エイズ事件や上海列車事故で新聞紙面に私の名前が時々出た頃、「知恵蔵」の人名録に私の名前が載った年がありましたが、まもなく消し去られましたから。 それはともかく、自分の誕生日と同じ人というのはなんとなく親しみを覚えるものです。私の場合は、幼い頃から、ものの本(当時はインターネットなんかもちろんありませんでしたので、今のようなデータベースで同じ誕生日の有名人を知ったのはごく最近のことです)で、森鴎外が1月19日生まれだというのは知っていたものですから、いつの頃からかしばらくは、軍医でありながらあんなに幅広く文学作品を世に出している森鴎外が私の憧れのような尊敬する人のような位置づけにあり、鴎外の本もむさぼり読んだ覚えがあります。 1月19日は、119。そう119番は消防、救急車の番号。そうすると、ひょっとして1月19日は、消防の日、救急の日かなと思うでしょう。でも残念、ブーなのです。消防の日は11月9日、救急の日は9月9日。1月19日は、家庭消火器点検の日なんですって。また、昭和21年のその日にNHKののど自慢大会が始まったので、のど自慢の日でもあるようです。 でも、それにもめげず、自己紹介する際に、よく「私は、1月19日生まれ、119番、高知を救うために生まれてきました!」と言うと、たいていドッと拍手がきます。数年前、高知市の議長をされた議員は、誕生日が昭和22年1月10日だったものですから、2人がそろって挨拶をする時には、お互い「議長が110番、市長が119番、2人そろって市民の生命と財産を守るため、がんばりまっす!」と言うと、たちまち座が和やかになり、まさに名コンビで仕事をさせていただきました。 私の幼い頃は、わが実家では、いつも誕生日になると母がぜんざいをつくってくれました。ケーキという時代でもなく、それほど豊かな家庭でもないわが家においては、大ごちそうで、私の好物でもあり、その日が来るのが楽しみだった覚えがあります。 誕生日も何度も迎え、「嬉しくもあり嬉しくもなし」のこの頃ですが、昭和44年(1969年)1月19日の22回目の誕生日は、私にとって一生忘れることができない衝撃的な日となりました。その日こそ、「造反有理」を掲げる大学紛争の終焉のきっかけにもなった、あの東大安田講堂攻防戦の末の安田城落城の日となったのです。私の東大4年生在学中、卒業間際の出来事です。このことは、後ほど触れることとします。 |
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| 6.幼い頃のこと(暗愚の相) | |
| 一体、記憶というものは、いつまで遡ることができるのか、自ら幼い頃の記憶をたどってみると、私の場合どうも5歳くらいまでしか遡れない。 私が生まれた所は、山口県光市の三井(みい)という光市の中では少し奥の方の地区で、小学校に上がる年に、現在の実家のある光井(みつい)という比較的中心部の地区に引っ越したようです。したがって、その間に2つの保育園に通った覚えがあります。はじめの三井の保育園は高台のお寺が経営する保育園で、記憶にあるのは、園にある誘導円木(縦に揺れる丸太のブランコ)という遊具から落ちて大けがをして両親や園長さん達に大変心配をかけたことと、近くの鉄道の踏切に友達と一緒に置き石をして大人の人にみつかり(もちろん、していることの重大性は全く認識ない単なる遊び心だったと思いますが、もし何か起こっていたら人生は変わっていたのではと思うとぞっとします。)園長さんにこじゃんとしかられたことくらいです。やっぱり平和な生活はあまり思い出に残らないもので、死ぬ思いをしたとかひどく心が傷ついたことがいつまでも記憶に残るものなんですねえ。 保育園までの距離は幼い足にはとても遠く、島田川という川の堤防沿いを道草を食いながら通ったことがかすかに記憶にあり、なぜか今でも夢の中で、その道すがら遠くの友達に「おーい、○○ちゃあん」「○○ちゃんと 呼んでも返事がなぁい、ええ嫁さんもろたんじゃろう!」と誰に教わったのか大声でからかいあう悪がきのやりとりをしたことが、きのうのことのようによみがえってきます。 引っ越して転園した新しい保育園は、町の中心部にあり、新入りということもあって、いじめがあったのか、全くなじめず、よく泣いて帰ったことばかりが記憶にあります。近所にやさしい同級の女の子がいて、よくいっしょに連れて帰ってくれました。私は、字を覚えるのが遅くて、小学校に上がるまでに、やっと自分の名前がひらがなで書けるようになったそうで、両親も随分行く末を心配したそうです。 そういえば、両親が未だに私の幼い頃の話で、きまって笑い話のように言うことがあります。それは、三井に住んでいるとき、近所のおじいさんが私の手相をみてやるといってみてもらったところ「うーん、こりゃ暗愚の相があるな」と言ったとかで、「暗愚」というのは、平たく言うと「ばか」のことのようですが、もちろん当時の幼い私はその意味がよくわからず、ほめてもらったものと勘違いして、近所中に「ぼくの手相見て、ほら、アングノソウがあるんじゃと、すごいじゃろう」と、自ら言いふらし歩いたと言うことです。その後、東大に現役合格し、自治省、市長と順風満帆の人生を送ってきた私のその後の人生においては、この幼い頃のことは、全くの笑い話と思っていましたし、記憶の底から消えかかっていましたが、2度の選挙に敗退し人生の悲哀を感じつつ、改めてこうして回顧する機会を得た今、「ひょっとして、あの手相見のおじいさんの言うこと、当たっていたかもしれない」と今更ながら、ハッとしているところです。そして、あのとき、「暗愚の後の結末は?それでおしまいじゃないでしょ」ともっと聞いておけばよかったなあと本気で思ったりもしている今日この頃です。 |
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| 7. 小学生の頃 おとなしいよい子 | |
| 小学校は、地元の市立光井小学校。家からは、約1.5qの距離の徒歩通学で、幼い足には、とにかく遠いという印象でした。郵便局、警察署、本屋さん、魚屋さん、八百屋さん、家具屋さん、小さいとはいえ町の通りをいろいろなお店をながめながら、行き帰り歩いての通学ですので、今でも、目をつぶると並んでいるお店の一軒一軒が頭に浮かんでくるくらい通い慣れた道です。途中田んぼや畑もありました。当時は小麦もあちこち植えてあって、病気で黒く炭のようになった穂をとっては、友達を追い回して体にくっつけるいたずら遊びもしたような記憶があります。 当時、私の家では、鶏を飼っていました。毎朝卵をとってかごに入れ、通学の途中にある卵屋さんに持って行って買ってもらうのが私の役目だった覚えがあります。その頃でも卵は一個10円で、当時の物価水準からするとかなり高価なものだったんですねえ。毎日50円から100円をいただいて、家に持って帰るのが、なんとなく楽しみでした。一時期あひるも飼っていて、裏の川にときどきあひるが逃げていき、追いかけて川をじゃぶじゃぶ歩き回っていると、あひるの大きな卵がころんと川の中にころがっていて、拾ってかえったことが妙に記憶に残っています。 学校の成績はというと、2年生までは、「よい」「ふつう」「ややおとる」というような3段階評価だったと思いますが、「よくできる」というようなものはほとんどなくて、ほとんど「ふつう」で、少し「ややおとる」があったように記憶しています。ところが、3年生頃から、目覚めてきたのか徐々に成績も上向きとなったようで、学級委員をやったりして、「ややおとなしいけれどもよい子」という成績表での先生のコメントがあったようです。 すぐ近くに、はげ山があり、学校から帰るとよくその山に上がって、友達と斜面を走り回って遊び、どろんこになって暗くなって帰宅するという毎日でした。三輪車が大好きで、近所中を乗り回していたようですが、あるとき、曲がり角で、近所のお兄さんの自転車と出会い頭にぶっつかって、私は溝に転げ落ち、額を切る大けがをしました。今もそのときの恐怖はよく覚えています。そのときの額の傷跡は今も残っていますが、確か30代くらいまでは、髪の毛の中のほうにかくれていたはずですが、最近は、髪が後退したせいか、額にくっきりと出てきたのがおかしい。 けがをして傷跡が残っていると、それを見る度にそのときのことを思い出すため、よく記憶に残るものです。もうひとつ太ももに大きな切り傷が残っていますが、これは小学生の頃あぐらを組んで竹とんぼや竹の紙鉄砲を作っているときにナイフが勢い余って足まで切ってしまったものです。けがをする度に、赤チンを塗ってもらっている母から、たしか「身体髪膚これを父母に受く あえて毀傷せざるは これ孝の始めなり」というような昔のことばを聞かされました。要するに、「体は皮膚、髪の毛に至るまで両親から授かったものだから、大切にして傷を付けないことが一番の親孝行だよ」ということだと思いますが、今でもよく覚えているということは、かなり頻繁にこのことばを聞く機会があったということか。そうとうな暴れんぼうかおっちょこちょいだったんでしょうか。そういえば、わが息子は小学生の頃、学校に行くのに、ひょっと見ると、家々のブロック塀の上を伝い歩き、なかなかまともに路面を歩かずに通学している姿を目にしたことがありますが、かえるの子はかえるなのかなあと苦笑したことです。私の父は「柿の木のぼりて さでこけて うんとうなりて・・」の名句を残していますし、血は争えないということか。 実家が商売だったせいか、私はそろばん塾と書道塾に通わされました。あまり好きではなく幼い心に「ああ 遊びたいのに」としぶしぶ行っていたような気がします。しかし、そろばんは結局3級まででしたが、後に青森県庁に赴任したとき、選挙開票速報の担当を命ぜられ、市町村から刻々入ってくる開票結果をそろばんを入れて集計するプロのようなベテラン勢に混ざって結構早く正確にそろばんを入れられる私に「ほおー」という驚きの声が聞こえたのが何とも誇らしかったことか。「ああ、いやでも親の言うようにそろばんを習っててよかったなあ」と思ったものです。 市長になって、伝統的に市長が新設の橋の名前を筆で書き親柱にそのまま彫り込むならわしがあって、高知市内の「月瀬橋」「廿代橋」「常通寺橋」などは、私の字で、そこを通る度に「うーん、ちょっとねじれているなあ、書き直したいなあ」と思ったり、「こりゃあ なかなかのできやねえ」とわれながら感心したりという場面があります。また色紙や碑に字を書いてほしいという依頼がくることが多く、市展にも必ず市長自ら出品するようになっています。小学生のような楷書体の字ではありますが、たまに「市長の性格が表われていて、誠実そうなのびのびしたいい字ですよ」と、書家の方から言っていただけることもあり、お世辞だと思いながらも、「ああ、あの頃ちょっとでも書道をやっててよかったなあ」と、親の先見性に今更ながら感謝することがあります。 6年生のとき、私は、読書魔で日記魔でした。学校の図書室を利用すると利用カードが後で配られ、その枚数を競い合っていた気がします。図書室の本のほとんどを読みあさったと思いますし、50年近くたった今でも児童図書で呼んだ偉人物語、童話などかすかに記憶に残っています。また、日記を書いて毎日先生に出すことになっていましたが、先生がいい表現だと思うところを赤い線を引いてくれたり、末尾に感想を書いてくれたりするのがすごく楽しみでした。時々みんなの前でいいところを読んでくれたりすると、もう大変。がぜん調子に乗って、ノートに4ページも5ページも書くようになっていました。先生もいい迷惑だったかもしれません。 しかし、そんなことがその後も今に至るまで、読んだり書いたりするのがきらいでないことにつながっているような気がします。 |
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| 8. 中学生の頃・・ちびっ子生徒会長 | |
| 私は、早生まれといわれる1月生まれでしたので、学年でも背丈はいつも低い方から5番目以内。何となく同級生が年上のように思えていましたので、自分がみんなより幼いように思われることが嫌でした。そんなことからか、「人に負けたくない、自分を目立たせたい」という気持が潜在的にあったように思います。 私の通った光市立光井中学校は、スポーツの盛んな学校で、野球、マラソン、バスケットなどクラブ活動はもちろん、縄跳びでも全校での大会や体力テストがありました。縄跳びの2段跳びは私の得意とするところで、その頃の毎日の練習が、その後の驚異的な跳躍力(高校時代に垂直跳び85センチ)をつけることにつながったと思います。懸垂も、体力テストでこの頃確か25回を記録し、いまでも担当の先生が「へえーこのチビの松尾がねえ」と驚いていた顔を覚えています。実は鉄棒は「テツキチ三羽がらす」の一人で、休み時間になると3人が競いあって鉄棒まで走り、「大振り」「蹴上がり」「大車輪」というおなじみの技はもちろん、両足を掛けて手を離したまま振りながら飛び降りる曲芸のような技まで、人前で得意げに見せては「オーすごいっ」と驚嘆の声を聞くのがなんとも誇らしかったものです。 クラブ活動は、バスケット部でした。1年上の姉がバスケット部に入っていたのと、バスケットをすれば背が伸びると誰に言われたのか信じていたためでした。当時はバスケットボールは、戸外スポーツでしたので、暑い真夏の太陽の下で、厳しいつらい練習が、今でも思い出されます。結局、背は中学時代はバスケットの効き目もなく伸びず、バスケットボールの試合には一度補欠で出してもらっただけで、あまり使いものにはなりませんでした。 クラブ活動はもう一つ文化部の気象クラブにも入っていました。この頃、今で言う「お天気おじさん」か「気象予報士」のような仕事に憧れがあったように思います。宇宙や気象に興味を持つようになったのは、自然の中に何か人の力を超える神秘のようなものを感じていたからでしょう。夏休みの研究課題に「台風」をテーマに発表したのを覚えています。 中学時代の私は、体が弱く、よく朝礼で貧血を起こしたり、風邪で学校を休んだりしていました。小児ぜんそくもあって体質改善策に両親も苦労していたようです。そんな私が、その後、めったに風邪もひかない頑健な体になったのは、どうも大学時代の体操部入部と養命酒愛用のせいのように思います。 学校へは自転車通学でしたが、よく友達と競争したものです。1年の時、いつものように、学校からの帰り、自転車で競争して帰っていたところ、前を走っていた友達の自転車のスタンドに私の自転車の前輪がひっかかり、あっという間に私の自転車がひっくりかえり、いやというほど腕を道路に打ち付けてしまいました。ボキッと音がしたように感じ、激痛が左腕の手首のあたりを走りました。折れたと思いました。ほねつぎに行ったところ、やっぱり骨折で、副木をあてて、おおげさに三角巾で肩から腕をつってもらいました。それから約2ヶ月、左手といえども顔を洗うことからして、使えないことの不便さを痛感しました。人間の体のどこと言って無駄なものはないものだと思いました。 勉強の方はというと、自分で言うのもなんですが、1年の時2回くらい2番になった以外は、中間テスト、期末テスト、実力テスト、模擬テストすべて校内1番。どうしたことでしょう。自分でもわかりません。もちろん当時ですから、学習塾などはありませんでした。ただ、授業を大切に、教科書中心主義で、テストの後の答え合わせを欠かさず、間違ったところは絶対に二度と間違わないようしっかり覚え込むという当たり前のことをまじめにやっていただけですが、確か「中一時代」「中二時代」「蛍雪時代」という学習雑誌を毎月買ってもらって読むのが楽しみで、付録の参考書や問題集を手当たり次第にやっていたのがよかったのかもしれません。 中学2年の時、薦められて生徒会長に立候補しました。今から思うとこれが後に政治を志すこととなった一つの段階だったかもしれません。そのとき応援演説をしてくれた私の親友が演説が終わって深々と礼をしたところ演台にゴツンとおでこをぶっつけてしまい、会場がどっと笑い声で湧いたのを覚えています。友達には申訳なかったですが、それがかえっていい印象だったのかもしれません。また、私の演説については、母にアドバイスを受け、「この小さな体にむち打って・・・」と右手で胸をドンと打った中学生らしからぬ(?)わざとらしいパフォーマンスが、「かわいい顔してなかなかやるじゃん」とずいぶん後で評判になったように覚えています。 見事に初当選した声変わりもしていないちびっ子生徒会長は、3年生に姉(やはり2年の時生徒会の書記を歴任)がいることもあってか、特に上級生の女子に人気があったような印象があります。生徒会長として挨拶をするときは、その前日はいつも原稿を書いて一生懸命覚えていました。人前で話すのはむしろ楽しみだったように思います。しかし、この頃は、政治家には全く興味はなく、自分は、将来、弁護士に向いているかもしれないぞと思っていたようです。 3年になって、「広島に、広島大学附属高校という難関校があるが受験してみないか」というお話を学年主任の先生にいただき、地元の高校に行くことが当然という気持でいた私に、にわかに「そんな高校があるのか、よしっ、やってやろうじゃないか」と挑戦の気持が湧き起こりました。この高校には、過去光市からは中学から入った人が一人、高校で入ったのは何年か前に一人だけというから、大変です。父が仕事上の知り合いの広島の人に様子を尋ねたところ、「広島でも最も難しい高校じゃから、山口から受けてもそりゃあ無理じゃよ、やめちょき」と言われたとかで、そのことを聞いてよけいにファイトが湧いてきました。 この高校は試験の特徴があって、英語のヒアリングがあるほか、音楽のクラシックの曲を聴かせて題名や作曲者、楽器などを答えさせるという。それからというもの、わが中学校としても威信をかけてか、私の意欲をかってか、先生方には放課後特訓をしていただきました。この時に、毎日沢山のレコードを聴いたのは今から思うとほんとによかったと思います。こういう試験を出す学校に当時としても魅力を感じたものです。 受験の日、初めて広島に行き、校庭に集合した受験生は、みな都会の秀才面をしていて、田舎者の私なんぞとても歯がたたない「身の程知らずだったかなあ」と思ってしまったものです。しかし、試験は意外とやさしく感じ、「こりゃひょっとして」と、広島からの帰り道、顔には出しませんでしたが、心はニンマリとしました。問題はほとんど覚えていませんが、ただひとつ、例の音楽を聴いての問題については、特訓の成果があって、サンサーンス作曲「白鳥」と正解することができましたが、楽器を答える問題の方は邦楽で普通三曲合奏の曲でしたので、てっきり尺八と思ってそう解答したところ正解を見るとなんと「フルート」だったのは、「いじわる、だまされた」とひねった問いに子供ながら「堂々と勝負しろ」なんて腹を立てていたのを覚えています。これも、余裕でしょうかねえ。ともあれ、父の広島の知人が合格発表を見に行ってくれて、「とおった、とおった、すごいねあんたの息子!」と弾む声で合格を告げてくれたのを、父が何度も誇らしげに話してくれる度に、「それみろ、やったあ」と親孝行したなあと安堵したものです。いずれにしても、あの時の主任の先生の助言で、その後の自分の可能性をしっかり伸ばすきっかけをいただくことができたものと、感謝しています。 |
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| 9. 高校生の頃…寮生活編 | |
| いざ広島の高校に行くという段になると、これまでの友は誰もいない。西日本各地から集まった秀才ばかり。親や家族からも離れての寮生活となる。広島という街も全く知らない。目の前に広がろうとしている現実を考えると、どんどん不安が広がってきました。 地元の光高校も合格していたので、先生から、「どちらの高校に行くのか」と改めて聞かれたときは、「えっ」と思った。「広島に行くに決まってるでしょ、せっかく難関を合格したのに、力試しに受けてみたらというということじゃなかったでしょ」と、その時は、合格すれば行くのが当然という気持でした。が、本当に行くとなると、中学を卒業したばかりのまだ親離れもしていない当時の私としては、なかなか勇気のいることでした。 父についてきてもらって、入学や入寮の手続き、身の回りの生活用品の購入などを手伝ってもらい、ひととおり終わると、いよいよ別れの時が来ました。母だったらきっと涙を流して何度も何度も振り返って別れを惜しむところでしょうが、さすがに父は心の中はともかく、別れはあっさりと「また、休みになったら帰って来いよ。時々手紙を書きなさいよ。」くらいで、握手をして別れました。その方がよかったと思います。今にも泣き出しそうな気持だったから。16才の春にして初めての親元を離れての生活の始まりです。新入寮生はみんな同じ気持だったのでしょう、4月の1ヶ月間は、ホームシックも最高潮で、よくトイレのあちこちからすすり泣きが聞こえてきました。「可愛い子には旅をさせよ」とはよく言ったものです。親や家庭のありがたさが身にしみてわかる経験です。 自宅通学ができない生徒は入寮が原則でしたが、寮生は、約50人くらいで、3年生になると寮を出て下宿する人もあったようです。場所は、広島市霞町の広島大学医学部の大学病院の構内にあって、名称は、いさましい「攻学寮」。建物は古く、第一印象としては暗く汚いという感じでした。部屋は6畳の畳に、机が3つ置ける板のスペースと押し入れがあるだけで、一部屋に3人、原則として1年、2年、3年が一人ずつ。3年生が牢名主みたいなもので、怖い偉い存在です。部屋替えが各学期ごとにありますので、私は、3年間で、9回部屋替えを経験し、18人の人といっしょの部屋で暮らしたことになります。この経験はすごいです。いろいろな人がいます。変な人もいます。寝食を共にすると、それぞれ育った環境も性格も違いますので、驚きの連続です。広島県内の郡部の人、岡山、島根、鳥取、山口の各県からの精鋭達ばかりです。私の最初の部屋の3年生も2年生も、幸い、とてもまじめで、やさしい先輩でした。とにかく、よく勉強をしていました。 寮の朝は、当番の起床係が大声で各部屋の住人を起こして回ることから始まります。夜遅くまで勉強して布団にもぐり込んで少しでも睡眠をむさぼりたい寮生の布団を容赦なくはぎ取って行くのが、起床係の仕事です。このことを趣味のようにしている先輩もいて、その声が聞こえると嫌でも飛び起きるようになっていました。泊まりの先生の中には、廊下にぶら下げてある半鐘をガンガン鳴らす先生もいて、あんまりうるさいので、みんなに嫌われていました。 眠い目をこすりながら、洗面所で列をつくって顔を洗い、食堂に集合。ごはん、みそ汁、たくわんと少しのおかず。ごはんだけは山盛り食べても大丈夫。みそ汁をつぐのは下級生の役割という寮のしきたりでした。食べ終わると、カウンターにずらりと並べてあるお昼の弁当を各自取って学校へ行く準備です。弁当は、おかずを入れるスペースが小さくて、今から思うと、成長盛りの高校生には、あまりにもかわいそうだった感じがしますが、それでも学校では弁当が楽しみでした。 学校から寮に帰ると、夕食を食堂で食べて、共同風呂に入って夜9時までは、学習時間で、部屋の出入りが禁じられています。夜9時になると、廊下に整列、寮に交代で泊る先生の点呼があります。それから30分くらいは、各部屋であらかじめ下級生が買ってくるパンやお菓子などを食べながらよもやまばなしの時間です。学校でのこと、寮内のできごと、ふるさとのこと、評判の女性徒のこと、先生の悪口、受験のこと・・・上級生の話を聞いているとほんとに楽しく、いい勉強になりました。もちろん(?)、見てはいけない本などがいつのまにかころがっているのも、寮の妙味でしょうか。 夜11時が消灯。その後も勉強をする人は、終夜使える自習室に行きます。先輩はたいていそちらの方に行って夜遅くまで勉強です。家庭にいるとテレビがあったり、口うるさい親がいたりで、なかなか勉強する環境にないでしょうが、この寮では自然に先輩を見習って勉強せざるをえない状況ができていました。勉強は先生や親に言われてやるものではない、誰のためにやるのではない、結局自分自身のためにやるものだ。と自分との戦い、ライバルとの戦い、励まし合いを学んだ寮生活でした。先輩に勉強の仕方、いい参考書などを教わったり、寮当番の先生に質問にでかけたり、今から思うと恵まれた環境、いい経験だったと思います。 後に、そんなこともあって、私の子供にもできれば寮生活を経験させたいという気持があり、3人とも結果的に私よりも早く中学から寮生活をすることになりました(詳しい経過は、このホームページのコンテンツの「プロフィール」の中で、「高知大好き人間・・私と高知」の項をご覧下さい。)。 しかし、寮生活もいいことばかりではありません。新入生の第一の試練は、ストームです。ある夜中、寝ていると、突然何者かに襲われ、ふとん蒸しにされたり、知らないうちに廊下に寝かされていたり、顔に墨でひげを書かれていたり、呼び出されて、3年生ばかりのいる暗い部屋の真ん中に座らされて集団尋問を受けたり、という夜の怖い日が何日か続くのです。これも伝統ですが、私が3年の頃はだんだんこの風習も廃れていきました。当時は嫌でたまりませんでしたが、今から思うとなつかしい思い出です。 朝のトイレとお風呂、洗濯は激しい競争社会。弱肉強食。遠慮していては生きていけないという時間です。なにしろ50人にトイレは10。朝は列をなします。トイレの中で、いきむのはともかく、英単語を暗唱したり、歌を歌ったり、本を読んだり、それぞれ孤独な空間を有意義に使っているものだから、並んで待つ方はたまらない。お風呂も狭いものだから、洗い場の取り合いが激しい。あくのを湯船で待ってるとゆだってしまうこともしばしば、スペースがなく立って洗う人も多い。先輩の立派なのをちらちら見ながらこそこそと洗う。洗濯は洗濯機が3つ。いかにあいている時間帯を見計らうかが難しい。物干しのスペースも確保しなければならない。ついついおっくうになって山のように洗濯物がたまったり、着替える時期を延ばしたり、下着を裏返してもう一回使ったりという、寮生ならではの生活の知恵(?)を覚えてしまう。 冬の寮はつらい。なにしろすきま風だらけ。暖房は、昔懐かしい火鉢が各部屋にひとつ。あの寮中に漂う練炭不完全燃焼で出るCOの独特な匂い、ちょっと頭が痛い(危ない危ない)けどみんなで「おお、寒いーっ」と火鉢を囲むあのひととき、先輩がいないときは、ひょいと火鉢をまたいで、股火鉢、冷えたおしりがぽかぽかと暖まってくるあのなんともいえない幸せな気持、今でもなつかしく思い出します。夜9時の団らんの時には、みんな田舎から送ってきたものを出し合って、かきもち、干し魚、干しいもなどを焼いて食べます。各部屋からいい匂いが競うように漂ってくるんです。先輩の部屋訪問が始まるのです。私の部屋には、よく他の部屋の先輩がやってきて、ごっそり食べていきました。机に向かうときは、火鉢から離れざるをえず、みんな毛布を足に巻き付けていすに座るのです。これが結構暖かく、自分の体温で暖まるものですから、眠くなりにくいという厳寒の寮生の伝統の生活の知恵です。 寮には、宿泊当番の先生のほかに、常駐の寮母さんがいました。厳しい人で、みんな嫌っていましたが、私には、やさしく声をかけてくれていましたので、嫌いではありませんでした。母が、折に触れ、季節のものなどいろんな物を送ってくれましたが、「寮母さんには、これをさしあげてください」と母の手紙がいつも入っていましたので、そのつど届けていたせいでしょうか。世の中のことがよくわかっている偉大なる母です。 あまりにも寮生活の思い出が鮮烈で、学校生活は影の薄い3年間でした。 そんな思い出深いわが攻学寮も、卒業後しばらくたって廃止されたそうです。風の便りでは、あの桃子寮母さんも既に故人となられたそうです。憧れの東大に合格して、寮母さんに報告に行ったとき、ほんとにわが子のことのように、喜んでくれたあの時の笑顔がなつかしく思い出されます。 無常な時の流れ、青春時代の遠くなったことを、寂しく感じます。 |
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| 寮生活の写真が見られます。 | |
| 寮史からスキャンしたので鮮明でないですが、雰囲気をお楽しみください。 | |
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